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君の体温で息継ぎを  作者: 三つ目の海底
3/12

雨上がりの日常

連休明けの朝。


昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空の下で、

俺は白石の家の玄関前に立っていた。


時計の針は、もうすぐ家を出なきゃいけない

ギリギリの時間を指している。


「……やっぱり、無理か」


閉ざされたままの重いドアを見つめ、

小さく息を吐く。


昨日の夜、あんな風に誘ったのは

ちょっと無神経だったかもしれない。

タオル越しに触れた指先が、

あんなに震えていたのに。


チャイムに指を伸ばし、

一度だけ鳴らす。

ピンポーンという電子音が、

静かな家の中に吸い込まれていった。


「白石。俺、先行くわ。

……無理すんなよ。

タオル、縁側に置いとくからな」


ドアの向こうからの返事はない。

それでも、あの薄暗い部屋の中で

あいつがこれを聞いていることだけは分かっていた。


綺麗に畳まれた洗いたてのフェイスタオルを縁側に置き、

俺は一人で学校へ向かう道を歩き出した。


隣に誰かがいる景色を、

ほんの少しだけ想像してしまっていた自分に苦笑いしながら。



「……なぁ、赤星のやつ、最近ちょっと変じゃね?」


「わかる。なんかボーッとしてるっていうか、

部活中も心ここにあらずって感じだよな」


昼休みの教室。

弁当をつつきながら、

野球部の連中が俺の噂話をしているのが聞こえた。


「ゴールデンウィーク中もさ、

練習終わったらソッコーで帰ってたし。

前までは一番最後まで残って自主練してたのに」


「もしかして、彼女でもできたとか?」


「うわ、マジかよ。抜け駆けかー?」


馬鹿な会話で盛り上がるアイツらの声が、

妙に遠く感じられる。


頬杖をついて窓の外を眺めながら、

俺の頭の中は、どうしてもあの「すりガラス」の向こう側へ

引き戻されてしまうのだ。


その時、視界の端で、

クラス委員の女子――高橋たかはし

ちらりとこちらを見ているのに気がついた。


高橋は、よく俺にプリントを届けてくれたり、

日直の仕事を手伝ってくれたりする、

面倒見のいい真面目な女子だ。


野球部の連中の「彼女できたんじゃね?」

という言葉を聞いて、

高橋が少しだけ不安そうに目を伏せ、

手元のシャーペンをぎゅっと握りしめたのを、

俺は気づかないふりをした。


誰かと付き合ってるとか、

そんな浮ついた話じゃない。


ただ、あいつのあの白い肌と、

痛々しい傷痕が。

ほんの少しだけ開いた窓の隙間から見えた、

あのひどく怯えた瞳が。


どうしても、頭から離れないだけなんだ。



放課後。

部活のグラウンドに向かう前に、

俺は職員室の前に立っていた。


「お、赤星。どうした?

まさかプリント届けるの、もう嫌になったか?」


お茶の入ったマグカップ片手に、

担任の武田先生がおどけた調子で笑いかけてくる。

俺は周りに他の生徒がいないことを確認してから、

声を潜めて口を開いた。


「……先生。白石のことなんですけど」


俺の真剣な声色に、

武田先生の笑顔がスッと消え、

教師としての真面目な顔つきに変わる。


「白石、どうして学校に来られないんですか。

ただの引きこもり……じゃ、ないですよね。

あいつ、自分の腕、すっげぇ引っ掻いてて……

なんか、見てられないっていうか……」


言葉を選びながら、

あの痛々しい赤い傷痕を思い出す。

タオルを突き出してくれた時の、

あの細く震える腕を。


武田先生は小さくため息をつき、

マグカップを机に置いた。


「赤星。あいつの事情は、

俺の口からは詳しく言えない。

ただ……あいつは、小学生の時に

ひどく傷つくことがあったんだ」


「傷つくこと……?」


「ああ。自分の容姿とか、存在そのものを

完全に否定されるような、そんな出来事がな。

……だから、外の世界を怖がってる。

誰も自分を受け入れてくれないって、

思い込んでるんだよ」


先生の言葉が、

ズシリと胸の奥に重く沈み込んでいく。


『だれ……ですか。勝手に……開けないで、ください……っ』


初めて目が合った時の、

あの拒絶と恐怖に満ちた声。


「……先生」


気づけば、俺はジャージの裾を

強く握りしめていた。


「俺、あいつのこと、

このまま放っておけません。

どうすればいいか分かんないけど……

でも、あんな暗いとこに、

一人で置いておきたくないんです」


俺の言葉に、

武田先生は少しだけ驚いたように目を見開き。

やがて、どこか泣きそうな、

でもすごく優しい笑顔で俺の肩をポンと叩いた。


「……ありがとうな、赤星。

お前に頼んで、本当によかったよ」


先生の大きくて温かい手が、

俺の胸の奥で燻っていた得体の知れない熱を、

確かな「決意」へと変えてくれた気がした。


グラウンドでの泥まみれの練習を終え、

俺が真っ直ぐに向かったのは、

自分の家ではなく、隣の家の縁側だった。


すっかり陽が落ちて、

薄暗くなり始めた空の下。

ザクッ、ザクッ、と砂利を踏みしめて

窓辺に近づく。


ふと視線を落とすと、

今朝、俺が縁側に置いておいたタオルは

綺麗になくなっていた。


あいつが、自分で窓を開けて

回収してくれたんだ。


それだけのことが、

たまらなく嬉しくて。

俺は少しだけ口元を緩めながら、

ドン、といつものように縁側に腰を下ろした。


すりガラスの向こうには、

今日も息を潜めている彼の気配がある。

壁際にちょこんと座り込むような、

小さな影のシルエット。


武田先生の言葉が、頭をよぎる。


『自分の容姿とか、存在そのものを

完全に否定されるような出来事がな』


俺には、あいつがどれほどの痛みを抱えて、

どれほど深い暗闇の中で

膝を抱えているのか、

本当のところは分からない。


俺はガサツで、馬鹿で、

気の利いた優しい言葉なんて

一つも持っていないから。


どうやってあいつの心に触れればいいのか、

全然分からなかった。


「……なぁ、白石」


ぽつりと、

ガラス越しに呼びかける。


向こうで、ビクッと影が揺れ、

微かに衣擦れの音がした。


「お前がさ、何を怖がってるのか。

なんでそんなに、

自分を隠したがってるのか……

俺には、よく分かんねぇけど」


大きく深呼吸をして。

俺は、ガラスの向こうの影に向かって、

胸の奥から絞り出すようにはっきりと告げた。


「でも、俺は絶対に、

お前のこと笑ったりしねぇよ」


ピタリと。

窓の向こうの空気が、

凍りついたように止まったのが分かった。


「お前がどんな顔してても、

どんな風に怯えてても。

変だとか、気持ち悪いだとか……

俺は絶対に、そんなこと思わねぇ」


自分でも驚くくらい、

真剣で、熱を帯びた声だった。


「だから……」


あの異常に白くて細い、

赤い引っ掻き傷だらけの腕を思い出す。


「だから、そんなに強く、

自分のこと傷つけんなよ」


沈黙が落ちた。


風の音さえ遠のいたような静けさの中で、

すりガラスの向こう側から、

ヒッ、と小さく息を呑む音が聞こえた。


続いて、

ギュッと服の裾を握りしめるような擦過音と、

微かな、本当に微かな、

しゃくり上げるような泣き声。


……泣いている。


俺の言葉が、

彼の閉ざされた心にどう響いたのかは分からない。

安堵の涙なのか、

それとも、踏み込みすぎた俺への恐怖なのか。


だけど、これ以上言葉を重ねたら、

せっかく繋がりかけた細い糸が

プツリと切れてしまいそうで。


俺は、今日渡されたプリントの入った封筒を

そっと窓のサッシに挟み、

ゆっくりと立ち上がった。


「……じゃあな。また明日、来るから」


背中越しに、

ガラスの向こうの泣き声が

少しだけ大きくなったような気がした。


俺は振り返らずに、

庭の砂利を踏んで自分の家へと向かう。


あいつの流した涙が、

少しでも、あの暗くて冷たい部屋の温度を

上げてくれることを祈りながら。


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