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君の体温で息継ぎを  作者: 三つ目の海底
2/12

ガラス越しの体温

窓際の少し色褪せた畳の上に、

ぽつんと置かれた学校の茶封筒。

昨日から、僕はずっとそれを見つめていた。


『俺、また……明日も様子見に来ていいか?』


静まり返った家の中に、

あの低くて少しぶっきらぼうな声が

何度もリフレインしている。


赤星あかほし うみ


あんなに近くで、

同世代の男の子の顔を見たのはいつぶりだっただろうか。

泥だらけのユニフォーム、

日焼けした肌、

熱を帯びた大きな瞳。

僕という人間を構成するすべての

要素と正反対の、眩しいくらいの生命力の塊。


彼が置いていったプリントからは、

まだ微かに夏の始まりのような土の匂いがする気がした。


「……来るわけ、ない」


乾いた唇から、掠れた声が漏れる。

親切心か、

あるいは先生に言われたから気を

使っているだけだ。

僕みたいな、女の子に間違われるような

気味の悪い引きこもりのところに、

あんな太陽みたいな人間がわざわざ来るはずがない。


そう自分に言い聞かせるのに。

いつもならとっくに暗いクローゼットの

中に逃げ込んでいる時間になっても、

僕は窓辺から離れられずにいた。

膝を抱え、無意識のうちに自分の

二の腕に爪を立てる。

引っ掻こうとして、ふと、

昨日海が僕の腕の傷痕を見て

一瞬だけ顔を歪めたことを思い出した。


――どうして。あんな、泣きそうな顔をするの。


爪を立てたまま指の力を抜くと、

腕にはうっすらと赤い三日月だけが残った。


やがて、部屋の中に差し込む光が

オレンジ色に変わり始めた頃。


ザクッ、ザクッ。


庭の砂利を踏みしめる音が聞こえ、

心臓が跳ね上がった。

嘘だ。本当に、来たのか。


「……白石ー。いるか?」


すりガラスの向こう側から、

あの声が降ってきた。

ビクッと肩を震わせ、

僕は咄嗟に口を両手で覆う。

声を出してはいけない。

息の音すら聞かれたくない。

恐怖と、それ以上に「彼に見られたくない」

という強い恥じらいが僕を縛り付けていた。


返事がないことに、

窓の向こうの影が少しだけ揺れる。

また、昨日みたいに勝手に開けられる。

そう思って身構えたが、ガラス戸に手をかけられる気配はなかった。


代わりに聞こえてきたのは、ドン、

と縁側に腰を下ろす音だった。


「開けないから、安心しろよ」


すりガラス越しに、

海の背中のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。

彼は僕に背を向けて縁側に座ったようだった。


「今日も先生にプリント押し付けられたから、

一応持ってきた。……窓の隙間に挟んどくからな」


カサリ、と紙の擦れる音がして、

窓のサッシの隙間に白い封筒がねじ込まれる。

それで終わりかと思った。

だが、海の影は縁側から動こうとしない。


「……今日から連休でさ。

部活、ずっと練習試合なんだわ。

一年坊主だからずっと球拾いと

声出しなんだけど、先輩の球が速すぎてさー……」


ぽつり、ぽつりと。

海は、返事もしない僕に向かって、

今日の部活であった他愛のない

愚痴をこぼし始めた。

怒られているわけでも、

説教されているわけでもない。

ただ、彼の日常の欠片が、

すりガラスを通して僕の

冷え切った部屋にぽろぽろとこぼれ落ちてくる。


「……あー、腹減った。白石、お前ちゃんと飯食ってんのか?」


ふいに投げかけられた問いに、

僕はビクッと肩を揺らした。

答えない僕を責めるでもなく、

海は「ま、食える時に食っとけよ」とだけ言って、

ゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、また明日な」


明日。

その言葉が、

また僕の胸の一番柔らかいところを

ギュッと締め付けた。


ザクッ、ザクッ、と足音が遠ざかっていく。

完全に気配が消えてから、

僕は恐る恐る窓に近づき、

サッシに挟まれた封筒を引き抜いた。

封筒には、まだ微かに彼の体

温が残っているような気がした。


ただのすりガラス一枚。

その向こう側に彼が座っていたという事実だけで、

僕の凍りついていた世界が、

ほんの少しだけ溶け出していくような感覚がした。

その日、僕は自分の腕を一度も掻きむしらなかった。


それから、不思議な日々が始まった。


世間がゴールデンウィークの連休を

満喫している間、

海は本当に毎日、

夕暮れ時になると僕の家の縁側にやってきた。


ザクッ、ザクッ。


庭の砂利を踏みしめるその足音が聞こえるたび、

僕は部屋の隅でビクッと肩を揺らす。

だけど、いつからだろう。

その音が聞こえてこないと、

どこか落ち着かなくなっている自分がいた。


海は決して窓を開けようとはしなかった。


ただ縁側にドカッと座り込み、

すりガラス越しに背中のシルエットを映しながら、

一方的にその日の出来事を話し始めるのだ。


「今日の練習試合、俺エラーしちゃってさ。

先輩にすっげぇ怒られた。マジでヘコむわ……」


「お前の家の庭、雑草伸びてんな。

今度、俺がむしっといてやろうか?」


「今日、母さんが唐揚げ作りすぎてさ。

……お前、唐揚げ食える?」


野球の愚痴、

家族の話、

他愛のない世間話。


僕は相変わらず一言も返さない。

息を潜め、

ただガラスの向こうから降ってくる彼の声に

耳を傾けているだけだ。


それでも海は気にする素振りもなく、

ひとしきり喋ると「じゃあ、また明日な」と

言って帰っていく。


窓のサッシに挟まれるのは、

学校のプリントだったり、

時には部活帰りに買ったであろうスポーツドリンクや、

コンビニの肉まんだったりした。


彼が帰った後、

僕はそっと窓を開けてそれを回収する。


肉まんは、まだ少しだけ温かかった。

その温もりに触れるたび、

凍りついていた僕の時間に、

一滴ずつお湯が注がれていくような感覚がした。


海が来るようになってから、

僕は自分の腕を掻きむしらなくなった。


痛みで心の暗闇を散らさなくても、

夕方になれば、

彼が強引に光を運んできてくれるからだ。


そして、連休も終わりに近づいた5月5日の夕方。

その日は朝から、

鬱陶しい春の雨が降り続いていた。


薄暗い部屋の中で、

僕は雨粒が窓ガラスを叩く音を聞きながら、

膝を抱えていた。


今日は来ないだろう。

いくらなんでも、

こんな土砂降りの中で

わざわざ他人の家の縁側に来る馬鹿はいない。


そう頭では分かっているのに、

僕は窓枠から少し離れた場所に座り込み、

ずっと外の音に耳を澄ませていた。


やがて、雨音に混じって、

ぐちゃり、と泥を踏む重い足音が聞こえた。


心臓が大きく跳ねる。


すりガラスの向こうに、

いつもより少し小さく丸まった背中のシルエットが

浮かび上がった。


「……あー、マジで最悪だ。どしゃ降りじゃん……」


ぶるりと震えるような声。

僕は息を呑んだ。

声の距離とシルエットの輪郭でわかる。

彼は傘をさしていない。

おそらく、部活帰りに雨に降られて、

そのまま走ってきたのだ。


「白石、いるー?

今日もプリント、挟んどくからな……

って、うわ、紙濡れそうだな、これ」


いつもよりずっと寒そうな、湿った声。


僕は畳の上に座ったまま、

強く拳を握りしめた。


ダメだ。僕みたいな人間が関わっちゃいけない。

窓を開けたら、またあの時のように、

気味悪がられるかもしれない。


『男のくせに、なんでそんな顔してんの?』


過去の幻聴が耳元で蘇り、息が浅くなる。

怖い。外の世界が、他人の目が怖い。


けれど、窓の向こうで

「さっむ……」と

小さくくしゃみをした彼の声を聞いた瞬間、

僕の体は勝手に動いていた。


クローゼットの引き出しから、

手当たり次第に清潔なフェイスタオルを

一枚掴み取る。


足音を立てないように窓辺に近づき、

震える手を、冷たいアルミの鍵に伸ばした。


カチャリ。


小さな金属音が、雨音の隙間に落ちた。


すりガラスの向こうのシルエットが、

ピクッと反応してこちらを振り向くのがわかる。


僕は目をぎゅっと瞑り、息を止めて、

窓をほんの5センチだけスライドさせた。


冷たい雨の匂いが、

部屋の中にサッと流れ込んでくる。


「……えっ?」


驚いたような海の声を遮るように、

僕は開けた5センチの隙間から、

握りしめていた真っ白なタオルを

ヌッと外へ突き出した。


「え、これ……。白石、お前……?」


僕は何も言えなかった。

顔を見せることもできず、

ただ壁の影に隠れながら、

震える手でタオルを突き出し続けているだけだ。


数秒の沈黙の後。


ひんやりとした僕の指先に、

ゴツゴツとした硬い指が、

そっと触れた。


「……サンキュ」


タオルを受け取る彼の声は、

いつもよりずっと優しくて、静かだった。


指先から伝わった微かな彼の熱が、

僕の体温を急激に上げていく。


心臓の音がうるさくて、

自分がどんな顔をしているのかすら

分からなかった。


窓の隙間から、

ゴシゴシと乱暴に髪を拭く音が聞こえる。


「っはー、生き返った。

マジで寒かったんだわ」


タオル越しのくぐもった声。

僕は壁に背中を預けたまま、

自分の指先をギュッと握りしめた。


ほんの一瞬触れただけの、彼の指の硬さと熱。

それがまだ、火傷みたいに僕の皮膚に残っている。


「……これ、明日洗って返すわ」


少しだけ開いた窓の隙間から、

海の声が降ってきた。

僕は声を出せず、ただ壁の影で小さく頷く。

見えていないだろうけれど、

そうせずにはいられなかった。


「……なぁ、白石」


不意に、声のトーンが変わる。

少しだけ躊躇うような、

でも、真っ直ぐに僕を探すような声。


「明日から、学校始まるけどさ」


ドクン、と。

少しだけ落ち着きかけていた心臓が、

また嫌な音を立てた。


「もし……もし、お前が来れそうなら。

朝、一緒にいかねぇ?」


雨音に負けないくらい、

はっきりとした言葉だった。


決して無理強いするような響きじゃなかった。

ただ、そこに道があるよって、

そっと教えてくれるような、そんな優しさ。


「……無理なら、全然いいから。

待ってて来なかったら、勝手に行くし。

じゃあな。風邪ひくなよ」


僕が何も答えられないでいると、

海はそれだけ言って、

ぐちゃり、ぐちゃりと泥を踏みながら

雨の中を帰っていった。


遠ざかる足音が完全に消えてから、

僕はゆっくりと窓を閉め、鍵をかけた。


カチャリ。


その音が、いつもよりずっと

重たくて、寂しい音に聞こえた。


壁に背中を預けたまま、

ズルズルと床にへたり込む。

両手で顔を覆うと、

自分の頬がひどく熱くなっていることに気がついた。


明日、学校。


怖い。

他人の目が怖い。

女の子みたいなこの顔を、

また誰かに笑われるかもしれない。

気持ち悪いって、言われるかもしれない。


だけど。


あの土の匂いと一緒に歩く道は、

どんな景色なんだろうと。


ほんの少しだけ、

そんなことを思ってしまった自分がいた。


部屋の片隅でハンガーにかけられたままの、

一度も袖を通していない真新しい制服。


それを見上げながら、

僕はもう一度、自分の指先に残る熱を

そっと撫でた。


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