西日の沈む部屋
はじめまして。
本作『君の体温で息継ぎを』を開いていただき、ありがとうございます。
この物語は、過去のトラウマから自分の殻に閉じこもり、学校に行けなくなってしまった少年・白石 涼と、隣に住む泥だらけの野球少年・赤星 海の二人が織りなす、ピュアで少しもどかしい青春恋愛小説です。
光の届かない冷たい部屋で、息を潜めるように生きている涼。
太陽の下で泥と汗にまみれ、真っ直ぐな熱を放って生きている海。
決して交わるはずのなかった正反対の二人が、「すりガラスの窓」という境界線越しに出会い、少しずつ、本当に少しずつ距離を縮めていく過程を、焦らず丁寧に描いていきたいと思っています。
ヒリヒリとするような心の痛みや、自己嫌悪の暗闇。
そこに、海という存在がどんな風に不器用な波を立て、涼がもう一度「息継ぎ」をするための光となっていくのか。
二人の抱える温度差や、触れたら壊れてしまいそうな繊細な関係性を、読者の皆様にも一緒に見守っていただけますと幸いです。
それでは、本編(第1話)へどうぞ。
「頼む、赤星!
この通りだ。お前しか頼れるやつがいないんだよ!」
放課後の職員室前。
頭の上で両手を力いっぱい合わせ、
情けない声を出しているのは、
俺たちのクラス担任である武田先生だ。
いい年をした大人が、
中学生の生徒に向かって躊躇いもなく頭を下げる。
一見すると頼りないことこの上ないが、
生徒の小さな変化にもよく気づき、
何かあれば自分の身を削ってでもすっ飛んでくるような、
どこか憎めない温かさを持った教師だった。
だからこそ、こうして泣きつかれると無下に断りづらい。
「……先生、俺これから部活なんですけど。
それに、隣に住んでるってだけで、
俺、白石とは顔も合わせたことないですよ」
「分かってる、分かってるんだが……!
もうすぐゴールデンウィークに入っちまうだろ。
せめて連休前に、この手紙とプリントだけでも渡しておきたいんだ」
ため息をつきながらグラウンドの方へ視線をやると、
すでに野球部の連中がアップを始めているのが見えた。
早く行きたいのに、と首の後ろを掻く俺、
赤星 海に、
武田先生は少しだけ声のトーンを落として言った。
「白石な、今、家で一人なんだよ」
「一人?」
「ああ。ご両親が仕事で海外に赴任しててな。
滅多なことじゃ帰国できないらしい。
兄弟もいないから、
あいつはずっと一人きりで……入学式から一度も、
学校に来られていないんだ」
先生の言葉に、
俺は少しだけ言葉に詰まった。
中学生になったばかりだっていうのに、
親のいない家で、毎日ずっと一人きり。
それは、グラウンドで泥まみれになって仲間と
馬鹿みたいに騒いでいる俺の日常からは、
あまりにもかけ離れた孤独な世界に思えた。
……ずるい。そんな顔で、
そんな事情を話されたら、断れるわけがない。
「……分かりましたよ。
今日の部活終わりに、寄ってみます」
「おお! 恩に着るぞ、赤星!
明日の練習、俺がボール拾い手伝ってやるからな!」
満面の笑みでプリントの束と
茶封筒を押し付けてくる武田先生を背に、
俺は渋々グラウンドへと足を向けた。
◆
部活が終わる頃には、空はすっかり赤みを帯びていた。
春の終わり特有の、
生ぬるくて少し湿った風が吹き抜ける。
泥だらけのユニフォームから漂う汗と
土の匂いを嗅ぎながら、
俺は自分の家のすぐ隣にある、
見慣れたはずの一軒家の前に立っていた。
白石の家は、いつ見ても静かだ。
両親が海外にいて、ずっと一人きり。
武田先生の言葉が頭をよぎる。
庭には雑草が少し伸び始めていて、
人が生活している気配がひどく薄かった。
「……いるのかよ、本当に」
独り言を呟きながら、
砂利を踏みしめて庭の奥へ進む。
チャイムを鳴らしても返事がなかったため、
俺は縁側に面したすりガラスの窓の前に立った。
部屋の中には明かりがついていない。
「あの……白石くん、いますか?」
初めて話しかける同級生。
しかも相手は引きこもっているわけで、
ガサツな俺でもさすがに気を使って敬語になる。
コンコン、と控えめにガラス戸を叩いた。
返事はない。
だが、窓の向こうで微かに
「ドンッ」と何かが床にぶつかるような音がした。
「あ、中にいるんですか?
……すみません、
先生からプリント預かってるんで、
少し開けますね」
返事を待たずに、
俺はそっとガラス戸を横にスライドさせた。
遮光カーテンの隙間から、
傾きかけた強い西日が部屋の中へと一本の光の道を作る。
その薄暗い部屋の片隅に、そいつはいた。
「え……?」
俺は、差し出そうとしていた
プリントを持ったまま、
完全に思考を停止させた。
西日の逆光の中でうずくまるようにして
こちらを見上げているのは、
どう見ても『女の子』だったからだ。
肩の下まで伸びた、手入れのされていない長い髪。
日差しをまったく浴びていないであろう、
透き通るような白い肌。
そして、Tシャツの襟元から覗く鎖骨や、
膝を抱える腕の線の、
折れてしまいそうなほどの異常な細さ。
女の子? なんで? 白石って、男じゃないのか?
いや、でも……。
混乱する頭でまじまじと見つめると、
少しつり上がったその大きな瞳が、
小動物のように怯えきって俺を
捉えていることに気がついた。
骨張った関節や、
ひどく華奢だが平らな胸元。
間違いない。目の前にいるのは、
俺と同じ年頃の『男の子』だ。
だが、毎日グラウンドで顔を
合わせる坊主頭の連中とは、
何もかもが違いすぎた。
まるで、少しでも力を込めて触れたら、
そのままパチンと割れて消えてしまいそうなガラス細工。
俺の全身には今も脈打つような熱と汗が
まとわりついているというのに、
目の前の彼からは、
体温というものが一切感じられなかった。
息をすることすら忘れて、
俺はその異質で痛々しいほどの美しさに、
ただただ釘付けになっていた。
どれくらいそうしていただろうか。
何秒か、あるいは何分か。
俺はただ、夕日の逆光の中に
浮かび上がる彼の姿から目を
離すことができなかった。
開け放たれた窓から吹き込む風が、
彼の長く細い髪を揺らす。
空気中を漂う細かい埃が、
一本の光の筋の中でキラキラと光っていた。
その光に照らされた白石の肌は、
触れたらそのまま透けて消えて
しまいそうなほど白く、
男だと言われてもにわかには
信じられないほど繊細な輪郭をしていた。
自分の心臓が、ドクン、ドクンと
嫌に大きな音を立てているのがわかる。
俺の体から発せられる泥臭い熱と
は完全な対極にある、ひんやりとした静謐な空気。
それに呑み込まれてしまいそうで、
手の中に握りしめたプリントがクシャリと
音を立てるまで、俺は息をすることすら忘れていた。
その、魔法にかけられたような
重い沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「……あ、の……」
掠れた、
ひどく頼りない声だった。
ビクッと細い肩を跳ねさせた白石は、
怯えた動物のようにズルズルと床を
後ずさりしながら、
何かから身を守るように自分の二の腕を
きつく抱きしめた。
その異常に白い腕に、
赤く痛々しい引っ掻き傷が
いくつもついているのが見えて、俺はハッとする。
「だれ……ですか。勝手に……開けないで、ください……っ」
警戒に満ちたつり目が、
かすかに潤んで揺れていた。
拒絶の言葉と、
そのあまりに怯えきった声色に、
俺はようやく硬直していた思考を無理やり再起動させた。
「あ、ちがっ……ごめん!
怪しいもんじゃなくて!」
思わず一歩踏み出して声を張り上げると、
白石が「ひっ」と短く息を呑んでさらに体を丸めた。
しまった、声がデカすぎた。
毎日グラウンドで怒鳴り合っている時の
ボリュームのままだったことに気づき、
俺は慌てて口元を押さえ、
踏み出した足をピタリと止める。
「……ご、ごめん。本当に、
驚かせるつもりじゃなかったんだ。
俺、隣の家に住んでる赤星 海。
同じクラスなんだ。
……担任の武田先生から、
これ、渡してこいって頼まれて」
これ以上怯えさせないよう、
なるべく低く、
ゆっくりとした声になるように意識しながら、
俺は手に持っていた茶封筒とプリントの
束を彼に見えるようにそっと掲げた。
白石はギュッと自分の腕を抱きしめ、
小刻みに震えながら、俺の顔と、
俺の手にある学校の封筒を交互に探るような目で見つめている。
怯えきったその姿を見て、
俺はようやく自分の無神経さに腹が立ってきた。
引きこもっているやつの部屋の窓を、
なんの断りもなく勝手に開けるなんて。
いくら先生のお使いとはいえ、
完全に不法侵入の一歩手前だ。
俺という得体の知れない泥だらけの異物が、
彼の静かで薄暗い世界を暴力的に土足で
踏み荒らしてしまったのだ。
「……ごめん。中には入らない。
ここに置いておくから」
これ以上彼を怯えさせないよう、
俺はゆっくりとしゃがみ込み
窓枠のすぐ内側の畳の上に、
茶封筒とプリントの束をそっと置いた。
床に置くために視線を下げた瞬間、
白石の華奢な足首が目に入る。
骨の形が浮き出るほど細く、
一度も外の光を浴びていないような青白い肌。
そこにも、二の腕と同じように
痛々しい赤い引っ掻き傷の痕がいくつも散らばっていた。
胸の奥が、チクッと嫌な音を立てて痛む。
どうして、自分自身をそんな風に
傷つけなきゃならないんだ。
聞きたい言葉は山ほどあった。
だけど、俺たちの間にはどうしようもないほど
明確な境界線が引かれている。
夕日の差し込む縁側と、
冷え切った薄暗い部屋の奥。
たった数メートルの距離が、
今は途方もなく遠い世界のように感じられた。
「……じゃあ、俺、帰るから。
勝手に開けて、本当にごめん」
顔を上げると、
白石はまだ部屋の隅で膝を抱えたまま、
大きなつり目で俺をじっと見つめていた。
警戒心と、恐怖と、
そして……ほんの少しだけの、戸惑い。
言葉を交わしたのはほんの一瞬だったのに、
底なしの泉のようなその瞳に吸い込まれそうになる。
俺は慌てて視線を外し、
逃げるようにガラス戸に手をかけた。
ピシャリと戸を閉める直前、
最後に一度だけ振り返る。
「あ、あのさ」
言うつもりなんてなかった言葉が、
勝手に口を突いて出ていた。
「俺、また……明日も様子見に来ていいか?
別に、無理に学校来いとか、
そういうのじゃなくて……ただ、
プリント届けるだけだから」
白石は何も答えない。
俺の言葉が届いているのかどうかも分からなかった。
ただ、彼が痛いほどきつく抱きしめていた
細い腕の力が、ほんの少しだけ緩んだような気がした。
それ以上の言葉はかけられず、
俺はガラス戸を完全に閉めた。
◆
ザクッ、ザクッ。
自分の家に帰るため、
白石の家の庭の砂利を踏みしめる。
西日はすっかり落ちて、
辺りは薄暗くなり始めていた。
夜の冷たい風が、
汗ばんだユニフォームを通り抜けていく。
いつもなら、
部活終わりのこの疲労感と空腹感で
頭がいっぱいのはずなのに。
俺の心臓は、まだ全力疾走した後の
ようにうるさく鳴り続けていた。
「……なんだよ、あれ」
自分のごつごつした大きな手の
ひらを見つめる。
バットダコで硬くなった皮膚。
泥が入り込んだ爪の間。
俺の体には、嫌になるくらい『生きている』という
熱が脈打っている。
それなのに、目を閉じると、
薄暗い部屋の隅でうずくまる彼の姿が、
瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
女の子のように長い髪。
透き通るような白い肌。
痛々しい赤い傷痕。
そして、何かを訴えかけるような、
あの静かで怯えた瞳。
あいつは、まるで深く冷たい
水の底に一人で沈んでいるみたいだった。
呼吸の仕方を忘れて、
必死に自分を抱きしめることでしか、生きていけないような。
「……明日も、行くって言っちゃったしな」
ため息をつきながら夜空を見上げる。
明日から世間はゴールデンウィークだ。
部活の練習試合がぎっしり詰まっている俺の忙しい連休に、
「白石の家にプリントを届ける」という日課が
新しく組み込まれてしまった。
めんどくさい、
と思うのが普通のはずなのに。
なぜか俺の足取りは、
不思議なほど軽かった。
胸の奥に燻る、あの痛々しいほど美しいガラス細工に
もう一度触れてみたいという熱を自覚しながら、
俺は自分の家の玄関のドアを開けた。




