第六章 大人の荷物は、大人に返す
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炎は、まだ消えていなかった。
猪狩くんが小さなジュソモンを抱きしめたことで、星火事の勢いは弱まった。けれど、家の周りにはまだ赤い光が残っている。空中には、燃えかけの札がいくつも浮かんでいた。
『お兄ちゃんなんだから』
『悠斗なら安心ね』
『助かるわ』
『ちょっとだけお願い』
それらは、じりじりと燃えながら、猪狩くんの背中へ落ちようとしていた。
ミュオパルが、氷の耳をぴんと立てた。
「まだですみゅ」
「まだ?」
「この火は、猪狩だけの火じゃないですみゅ」
理央は、炎の外に立つ猪狩くんの両親を見た。
母親は泣きそうな顔で、弟妹を抱きしめている。父親はスマホを握ったまま、燃える札を見上げていた。
「私たちが、これを……?」
母親の声が震えていた。
炎の中で、猪狩くんは小さなジュソモンを抱えたまま、顔を上げられないでいる。
「違う」
猪狩くんが言った。
「俺がちゃんとできなかったから」
その瞬間、燃えかけの札が一斉に赤く光った。
『ちゃんと』
『できるでしょ』
『悠斗なら』
『お兄ちゃんだから』
言葉が、また炎になろうとする。
「違いますみゅ!」
ミュオパルが叫んだ。
小さな体なのに、その声は星火事の中でまっすぐ響いた。
「君は、お兄ちゃんですみゅ。でも、親ではないですみゅ!」
猪狩くんが、びくっと肩を揺らした。
ミュオパルは、氷フォームのまま、炎の中へ一歩進んだ。足元に青白い光の輪が広がる。
「ごはんを考えること。弟や妹の宿題をいつも見ること。洗濯物を片づけること。家が回るように、ずっと気を張ること」
ミュオパルの声が、少しだけ震えた。
「それは、本当は、大人が考えることですみゅ」
「でも」
猪狩くんは、小さなジュソモンを抱いたまま、かすれた声で言った。
「俺がやらなきゃ、家が回らない」
「回らないなら、回らないって、見えるようにするですみゅ」
「そんなの、だめだろ」
「だめじゃないですみゅ」
「だって、弟たちが困る」
「困ることを、君ひとりが隠してきたんですみゅ」
猪狩くんは黙った。
ミュオパルは続ける。
「ぜんぶ投げちゃえばいいですみゅ」
理央は、思わず「えっ」と言った。
猪狩くんも顔を上げる。
「何言ってんだよ。そんなことしたら、めちゃくちゃになるだろ」
「めちゃくちゃになるなら、めちゃくちゃなままでいいですみゅ」
「よくないだろ!」
「よくないですみゅ。でも、それは君ひとりが直すことじゃないですみゅ」
ミュオパルの額の青い星が、静かに光った。
「君が投げ出して回らないなら、まちがっているのは君ではなく、その仕組みですみゅ」
炎の外で、母親が息をのむ。
父親が、ゆっくりスマホを下ろした。
「大人の荷物は、大人に返すですみゅ」
その言葉と同時に、空中の札が一枚、青白く凍った。
『お兄ちゃんなんだから』
氷の中で、その文字がひび割れる。
ぱきん。
札は砕けて、赤い火ではなく、白い光の粒になって消えた。
次の札も凍る。
『悠斗なら安心ね』
ぱきん。
『助かるわ』
ぱきん。
『ちょっとだけお願い』
ぱきん。
ひとつずつ、言葉の火が消えていく。
でも、それはなかったことになる消え方ではなかった。まるで、誰かがようやく「これは子どもに背負わせる荷物ではなかった」と認めたみたいに、静かにほどけていく。
「悠斗」
母親が、炎の外から声をかけた。
猪狩くんは、顔を上げなかった。
「ごめん」
母親の声は、泣いていた。
「お母さん、あなたに頼りすぎてた」
「……」
「助かるって言ってた。えらいって言ってた。褒めてるつもりだった。でも、もっと背負わせてた」
父親も、一歩前に出た。
「悠斗。俺もだ」
猪狩くんは、小さなジュソモンを抱く腕に力を込めた。
「今さら、そんなこと言われても」
「うん」
母親がうなずいた。
「今さらだよね」
「俺、ずっと嫌だった」
「うん」
「弟の迎えも、宿題も、風呂も、洗濯も、ぜんぶ」
「うん」
「でも、嫌だって言ったら、お母さんたち困ると思った」
「うん」
「俺、子どもなのに」
その言葉で、母親は顔をゆがめた。
「うん。ごめん」
父親が言った。
「家のことは、大人が考える。全部すぐにうまくは直せないかもしれない。でも、お前ひとりに戻さない」
猪狩くんは黙っていた。
小さなジュソモンが、猪狩くんの胸の中で、まだ震えている。
ミュオパルが、少しだけ表情をゆるめた。
でも、理央は胸の奥に、別の硬いものが残っているのを感じていた。
猪狩くんは苦しかった。
それは本当だ。
でも。
理央は、昨日から今日にかけて言われた言葉を思い出した。
Fランク。
役に立たなそう。
自分の心配してろよ。
それは、消えていない。
「猪狩くん」
理央は声を出した。
猪狩くんが、ゆっくりこちらを見た。
理央は手を握りしめる。
怖かった。
でも、言わなければならないと思った。
「猪狩くんがつらかったことと、私たちを傷つけたことは、べつだよ」
猪狩くんの顔が、こわばった。
理央は続けた。
「私は、Fランクって笑われたの、いやだった。ミュオパルを弱そうって言われたのも、いやだった」
炎の中で、ミュオパルが小さくうなずく。
「つらかったことは、本当だと思う」
理央は言った。
「でも、だからって、私にぶつけていいことにはならない」
猪狩くんは、何も言わなかった。
ミュオパルが、その横に並ぶ。
「荷物は、大人に返すですみゅ」
そして、まっすぐ猪狩くんを見た。
「でも、ぶつけた火は、君がつぐなうものですみゅ」
星火事の残り火が、静かに揺れた。
猪狩くんは、小さなジュソモンを抱いたまま、うつむいた。
「……わかってる」
その声は、とても小さかった。
「いや、わかってなかった」
猪狩くんは、顔を上げないまま言った。
「弱いやつ見ると、むかついた」
理央は息をのむ。
「俺は、ちゃんとしなきゃいけないのに。家でも学校でも、頼られて、できて当たり前なのに。七瀬がぼーっとしてたり、ノートに絵描いてたり、Fランクでも守られてるみたいに見えて」
「守られてる?」
「その、ミュオパルに」
猪狩くんの声が、少し震えた。
「むかついた。俺には、そんなのいないって思った」
小さなジュソモンが、また泣いた。
「ぼくも、だれかに来てほしかった」
猪狩くんは、ぎゅっと目をつぶった。
「だからって、言っていいことじゃなかった」
理央は、黙って聞いていた。
許す、と言う準備はできていない。
でも、聞くことはできた。
ミュオパルが言った。
「ごめんで終わりじゃないですみゅ」
猪狩くんが、ミュオパルを見る。
「ごめんから、はじまるですみゅ」
「……うん」
猪狩くんは、小さなジュソモンを抱いたまま、うなずいた。
その瞬間、炎のジュソモンの大きな外殻が、ぱきぱきと音を立て始めた。
赤黒い角が崩れ、燃えるたてがみがほどけ、巨大な爪が光の粒になっていく。
怒りの外側が、少しずつセパレートされていく。
中に残ったのは、小さなすすだらけのジュソモンと、猪狩くんのルビーだった。
ルビーはまだ少し濁っていた。
でも、その奥に、あたたかい赤い光が戻っている。
星火事の炎が、ふわりと夜空へ昇った。
火の粉は、途中で星の粒になり、ひとつ、またひとつと消えていく。
住宅街に、夜の静けさが戻ってきた。
遠くで本物のサイレンの音が近づいてくる。
近所の人たちが、ようやく外へ出てきた。
「何だったの、今の」
「火事じゃないの?」
「でも焦げてない……」
誰も、すぐには理解できない。
それでいいのかもしれない、と理央は思った。
すぐにわかることばかりではない。
猪狩くんの母親が、弟妹を父親に預け、炎の消えた玄関先へ進んだ。
「悠斗」
猪狩くんは、抱きしめていた小さなジュソモンを見下ろした。
その子はもう泣き止んでいた。ただ、疲れきったように、猪狩くんの胸に顔を押しつけている。
「その子は?」
母親が聞いた。
猪狩くんは、少し迷ってから言った。
「俺が、見ないふりしてたやつ」
母親は唇を噛んだ。
「そう」
それ以上、今は何も言わなかった。
猪狩くんは、ゆっくり理央のほうを見た。
「七瀬」
理央は少し身構えた。
猪狩くんは、目をそらしそうになって、それでもそらさなかった。
「昨日と今日、悪かった」
理央は、すぐには答えられなかった。
胸の奥がまだ痛かった。
でも、猪狩くんが逃げずに言ったことはわかった。
「……うん」
理央は言った。
「いやだった」
「うん」
「すごく」
「うん」
猪狩くんはうなずいた。
理央は、もう一度息を吸う。
「でも、謝ったのは聞いた」
猪狩くんの顔が、少しだけゆがんだ。
泣きそうにも見えた。
でも、泣かなかった。
「……うん」
ミュオパルが、理央の肩にぽすんと乗った。
氷フォームの耳が、ゆっくり白いふわふわの耳に戻っていく。
額の青い星が薄れ、いつもの小さなオパールに戻る。
「みゅ……フォームチェンジ、解除ですみゅ」
「おつかれ」
理央が小声で言うと、ミュオパルは「みゅう」と弱く鳴いた。
「ちょっと、がんばりましたみゅ」
「かなりがんばったよ」
「みゅふ」
そのとき、消防車とパトカーが到着した。
大人たちが一斉に動き始める。
事情を説明する声。
驚く近所の人たち。
泣き止まない弟妹。
猪狩くんの両親は、何度も頭を下げていた。
先生にも連絡が行ったらしく、学校の担任から猪狩くんの家へ電話が入っているようだった。
理央は、その場に立っている自分が急に場違いに思えた。
「帰ろう」
理央はミュオパルに言った。
「陸、カレー待ってる」
「みゅ。カレーは大事ですみゅ」
理央は、そっとその場を離れた。
振り返ると、猪狩くんがこちらを見ていた。
理央は、小さくうなずいた。
猪狩くんも、ほんの少しだけうなずいた。
まだ友だちではない。
許したわけでもない。
でも、何かが始まった気がした。
夜道を歩きながら、理央はポケットの中のオパールに触れた。
さっきまで濁っていた石の奥に、かすかな青い光が浮かんでいた。
それは、氷フォームの光に似ていた。
でも、冷たいだけではない。
静かで、やさしい青だった。
「ミュオパル」
「みゅ?」
「オパール、少し光ってる」
「理央が、見たからですみゅ」
「何を?」
「猪狩の火の奥ですみゅ」
理央は、歩きながら空を見た。
星火事の火の粉は、もう見えない。
でも、空には小さな星がいくつか瞬いていた。
「見たから、光るの?」
「たぶんですみゅ」
「たぶんばっかり」
「ミュオパル、まだ生まれたばかりですみゅ」
「そっか」
理央は少し笑った。
家に帰ると、陸が玄関まで走ってきた。
「遅い! カレー冷めた!」
「ごめん」
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、星火事」
「は?」
「なんでもない」
台所に行くと、カレーはぬるくなっていた。
理央はもう一度温め直す。
電子レンジの光を見ながら、今日あったことを思い返す。
Fランク。
価値なし。
星火事。
氷フォーム。
本当のジュソモン。
大人の荷物は大人に返す。
ぶつけた火は、つぐなう。
全部、一日で起こったこととは思えない。
「理央」
ミュオパルが、ポケットの中から小さく言った。
「なに」
「理央も、いやだったって言えましたみゅ」
理央は、電子レンジの中のカレーを見つめた。
「……うん」
「えらいですみゅ」
「えらいとかじゃないよ」
「でも、ミュオパルは、えらいと思うですみゅ」
理央は、少しだけ目を伏せた。
電子レンジが、ピー、と鳴った。
理央はカレーを取り出す。
陸がスプーンを持って待っている。
いつもの夜だった。
でも、ほんの少しだけ違う夜だった。




