第五章 星火事
夜の住宅街の向こうが、赤く光っていた。
最初、理央はどこかの家の外灯かと思った。
でも違う。
光は、ゆらゆら揺れていた。赤く、金色で、時々黒っぽく濁りながら、空へ向かってのびている。
「……火事?」
理央は窓に近づいた。
カレーの鍋が、コンロの上でくつくつ音を立てている。弟の陸はリビングでテレビを見ていた。
「理央ー、カレーまだ?」
「ちょっと待って」
理央は返事をしながらも、目を窓の外から離せなかった。
赤い光は、だんだん強くなっている。
その光の中で、星みたいな火の粉が、ぱちぱちと夜空へ舞い上がっていた。
でも、煙がない。
普通の火事なら、黒い煙が上がるはずなのに。
机の上から、ミュオパルがふわっと飛んできた。飛ぶというより、綿毛みたいに浮かんで、理央の肩にぽすんと乗る。
「星火事ですみゅ」
「ほし、かじ?」
理央は聞き返した。
ミュオパルの耳の内側が、赤い光を受けて、ちらちらと不安そうに揺れている。
「心の炎が、あふれ出してますみゅ。あれは、ただの火事じゃないですみゅ」
「ただの火事じゃないって、でも、火事なら消防車呼ばなきゃ」
「消防車も大事ですみゅ。でも、あの火は水だけでは消えないですみゅ」
「どういうこと」
「ジュソモンですみゅ」
その言葉を聞いた瞬間、理央の背中がぞわっとした。
ジュソモン。
昨日まで知らなかった言葉なのに、なぜかとても嫌な響きがした。
ミュオパルは、窓の外を見つめたまま言う。
「ジュエモンは、その人の心の光から生まれますみゅ。でも、自分のほんとうの気持ちをずっと見ないふりして、怒りやいやな言葉ばかり大きくなると、ジュエモンは濁ってしまうですみゅ」
「それが、ジュソモン?」
「みゅ」
「じゃあ、あそこにいる誰かのジュエモンが……」
理央は言いかけて、息をのんだ。
赤い光が上がっている方向。
あれは、学校からの帰り道で猪狩くんが歩いていったほうだ。
「まさか」
窓の外で、赤い火の粉がもう一度強く舞った。
その中に、見えた気がした。
燃えるたてがみ。
赤黒い角。
大きな獣の影。
そして、その炎の下に、ランドセルを背負った男の子の姿。
「猪狩くん……?」
理央は、肩に乗ったミュオパルを見た。
ミュオパルは、こくんとうなずいた。
「たぶん、猪狩ですみゅ」
理央は動けなかった。
猪狩くん。
理央のオパールを笑った子。
ミュオパルを弱そうだと言った子。
Fランクのくせに、と言った子。
自分の心配をしてろよ、と吐き捨てた子。
助けに行かなきゃ、と思った。
でも同時に、行きたくない、とも思った。
だって、嫌なことを言われた。
理央は傷ついた。
助ける理由なんて、あるのだろうか。
ミュオパルは、理央の頬の近くで小さく言った。
「理央、いやなら、いやでいいですみゅ」
「え?」
「傷つけられたのは、ほんとうですみゅ。だから、こわいとか、いやだとか、思っていいですみゅ」
理央は、胸の奥をつかまれたような気がした。
行かなきゃ、だけじゃない。
助けなきゃ、だけじゃない。
いやだと思ってもいい。
その言葉が、少しだけ理央を楽にした。
「でも」
理央は窓の外を見る。
赤い光が、また大きくなった。
火の粉が星みたいに舞い、夜の道を照らす。
「でも、あれ、このままだと危ないんでしょ」
「危ないですみゅ」
「猪狩くんも?」
「みゅ」
「周りの人も?」
「みゅ」
理央は、ぎゅっと拳を握った。
「陸!」
「なにー?」
「カレー、火止めるから、ちょっと待ってて! 絶対コンロ触らないで!」
「え、どこ行くの?」
「すぐ戻る!」
「お母さんに言うよ?」
「言っていい!」
理央はコンロの火を止め、スマホをつかんだ。
本当に火事なら通報しなきゃいけない。だけど、あれは普通の火事じゃない。大人にどう説明すればいいのかわからない。
迷いながらも、理央は玄関へ走った。
靴をつっかける。
ミュオパルが、オパールごと理央のポケットに飛びこんだ。
「行くですみゅ」
「うん」
夜の外へ出ると、空気が熱かった。
春の夜のはずなのに、夏の夕立の前みたいに、むわっとしている。
赤い光のほうへ走る。
近づくほど、普通の火事ではないことがわかった。
煙の匂いはない。
焦げた匂いもしない。
代わりに、胸の奥がざわざわするような匂いがした。
怒ったときの熱。
泣きたいのを我慢したときの喉の痛み。
言いたいことを飲み込んだときの、苦い感じ。
そういうものが、全部混ざったような熱だった。
「これ、なに……」
「心の火ですみゅ」
ミュオパルがポケットから顔を出す。
「見ないふりされた気持ちが、もう中におさまらなくなったですみゅ」
角を曲がると、猪狩くんの家が見えた。
家の周りは、炎の海だった。
けれど、やっぱり普通の炎ではない。
玄関も、窓も、塀も、燃えているように見えるのに、崩れていない。カーテンは赤く揺れているのに、灰にならない。自転車も、植木鉢も、形を保ったまま炎の中にある。
そのかわり、空中にいくつもの赤い札が浮かんでいた。
札には文字が書かれている。
『悠斗、弟の宿題見ておいて』
『お風呂お願い』
『洗濯物たたんでおいて』
『お兄ちゃんなんだから』
『悠斗なら安心ね』
『助かるわ』
『ちょっとだけお願い』
その札が、一枚ずつ燃え上がっては、火の鳥みたいになって家の中へ飛びこんでいく。
理央は立ち尽くした。
「……言葉が、燃えてる」
「言葉が、火になってますみゅ」
ミュオパルが震える声で言った。
「何度も何度も積もった言葉ですみゅ」
家の前には、猪狩くんの両親らしい大人がいた。
母親は弟妹を抱きしめるようにして、炎の外に立っている。父親はスマホを握りしめ、誰かに電話しているようだった。
「どうなってるんだ、これは!」
「火事なの? でも、燃えてない……どうして」
母親の顔は真っ青だった。
弟妹は泣いている。
その向こう、炎の中心に、猪狩くんがいた。
膝をつき、赤いルビーを両手で握っている。
その背中から、巨大な炎の獣が立ち上がっていた。
昨日、ケースの中で半透明に揺れていた炎獣とは違う。
今のそれは、赤黒く濁り、角も爪も大きくふくれ上がっている。たてがみは炎そのもので、目は燃える穴みたいに黒かった。
炎のジュソモン。
そう呼ぶしかないものだった。
ジュソモンが吠える。
すると、また言葉の札が浮かび上がった。
『お兄ちゃんなんだから』
『悠斗ならできるでしょ』
『頼りになるな』
『えらいわね』
『助かる』
炎の獣が吠えるたび、その言葉が燃える。
燃えて、猪狩くんの背中に降り積もる。
「やめろ……」
猪狩くんの声が聞こえた。
小さく、かすれていた。
「もう、やめろよ……」
でも、ジュソモンは止まらない。
炎はさらに大きくなる。
周りの大人たちは近づけない。
理央も熱で一歩後ずさった。
「ミュオパル、どうすればいいの」
「浄化するですみゅ」
「浄化?」
「倒すんじゃないですみゅ。あの子の中にいる、本当のジュソモンを見つけるですみゅ」
「本当のジュソモン?」
「今見えているのは、怒りや攻撃性や、ぶつけた火ですみゅ。大きくなりすぎた二次感情ですみゅ」
「二次感情ってなに」
「ほんとうの気持ちの上にかぶさった、あとから来た気持ちですみゅ」
ミュオパルは、炎の奥を見た。
「怒ってるですみゅ。でも、たぶん、怒りだけじゃないですみゅ」
理央は、猪狩くんを見た。
炎の中で、猪狩くんは歯を食いしばっている。
苦しそうだった。
でも、理央の頭の中には、昼間の言葉がよみがえる。
Fランクのくせに。
自分の心配してろよ。
役に立ってなんぼだろ。
理央は、唇を噛んだ。
「ミュオパル」
「みゅ」
「私、猪狩くんのこと、まだ嫌だよ」
「みゅ」
「助けたいって、ちゃんと思えてるか、わかんない」
「それでもいいですみゅ」
ミュオパルは、理央のポケットから出て、ふわりと目の前に浮かんだ。
「でも、星火事は止めるですみゅ。猪狩も、周りの子も、これ以上燃えないようにするですみゅ」
「……うん」
理央はうなずいた。
それなら、わかる。
全部許すためじゃない。
なかったことにするためじゃない。
これ以上、誰かが燃えないようにするため。
「どうやって」
理央が聞くと、ミュオパルはきりっとした顔になった。
「氷フォームですみゅ」
「こおりフォーム?」
「理央が創作ノートに描いてたですみゅ」
「描いてたけどぉ?」
「フォームチェンジですみゅ」
「ええ!?」
こんな状況なのに、理央は思わず変な声を出した。
「今? ここで?」
「今ここでですみゅ!」
「そんなの、できるの?」
「やってみるですみゅ!」
「やってみるって何!?」
ミュオパルは、炎の海の前で胸を張った。
「理央、創作ノートですみゅ!」
「持ってきてない!」
「ランドセルの中ですみゅ!」
「家!」
「みゅっ」
ミュオパルが固まった。
理央も固まった。
炎のジュソモンがまた吠え、熱風がぶわっと吹きつける。
「ちょっと、どうするの!」
「だいじょうぶですみゅ! 理央の中にありますみゅ!」
「ノートが!?」
「描いたものは、理央の中にありますみゅ!」
「急に根性論みたいなこと言わないで!」
「根性じゃないですみゅ! スターワールドですみゅ!」
ミュオパルは、理央の胸元に飛びこんできた。
額の小さなオパールが、理央の胸の前で光る。
「理央、思い出すですみゅ。氷フォームのページですみゅ」
「思い出すって」
「耳は?」
「……氷の結晶」
「しっぽは?」
「氷砂糖みたいにきらきら」
「額のオパールは?」
「青い星」
「そうですみゅ!」
ミュオパルの体が、白く光り始めた。
理央の頭の中で、創作ノートのページが開く。
青い鉛筆で描いた線。
消しゴムでこすれて少し薄くなった耳の形。
ページのすみに書いた「こおりフォーム?」の文字。
それらが、まるで本当に目の前にあるみたいに、ぱらぱらとめくれていく。
理央の胸の奥から、青白い光があふれた。
それは、星の川みたいだった。
細い光の帯が、くるくると渦を描き、ミュオパルの周りを包みこむ。
青。
水色。
白銀。
オパールの遊色みたいなきらめきが、炎の赤の中でまぶしく光る。
「スターストリームですみゅ!」
ミュオパルが叫んだ。
光の帯が、さらに強く渦巻く。
ミュオパルの白い耳に、霜の模様が走った。耳先が透明な氷の結晶みたいに変わる。ふわふわのしっぽは、氷砂糖のようにきらめき、額のオパールには青い星が灯った。
「ミュオパル、フォームチェンジですみゅ!」
ぱあっと青白い光がはじけた。
炎の海の前に、小さな氷のジュエモンが浮かんでいた。
ミュオパルだ。
でも、さっきまでのふわふわだけの姿とは違う。
冷たくて、きらきらして、でもやっぱり丸くてかわいい。
「ほんとになったああ!?」
理央が叫ぶと、ミュオパルは得意そうに胸を張った。
「こおりフォームですみゅ!」
炎のジュソモンが、青い光に気づいてこちらを向いた。
黒い穴みたいな目が、理央とミュオパルをとらえる。
熱風が吹きつけた。
理央は腕で顔をかばう。
ミュオパルは前に出た。
「怒りの炎、少し冷ますですみゅ!」
「消すんじゃないの!?」
「消したら、中の声まで聞こえなくなるですみゅ!」
「そんな繊細な話なの!?」
「繊細ですみゅ!」
ミュオパルが耳を大きく振った。
氷の結晶が、ころころと光の粒になって飛んでいく。
それは雪ではなかった。
冷たすぎる氷でもなかった。
熱を奪いすぎず、ただ、燃えすぎた心を少しだけ冷ます光。
青白い光が、炎の海に落ちる。
じゅう、と音がした。
でも煙は出ない。
かわりに、炎の中から、たくさんの声がこぼれた。
『お兄ちゃんなんだから』
『助かるわ』
『頼りになるな』
『悠斗なら安心ね』
『ちょっとだけお願い』
『えらいね』
『えらいね』
『えらいね』
褒め言葉のはずの声が、炎になっていた。
理央は息をのんだ。
猪狩くんの母親が、炎の外で口元を押さえる。
「私……そんなつもりじゃ」
父親も、燃える文字を見上げている。
「悠斗……」
猪狩くんは、炎の中心で叫んだ。
「うるさい!」
ジュソモンが同時に吠える。
炎が爆発するように広がった。
ミュオパルの氷の光が押し返される。
「ミュオパル!」
「まだですみゅ!」
ミュオパルは小さな体で踏ん張った。
氷の耳がきらきら震えている。
「理央、もっと思い出すですみゅ! 氷フォーム、どんな子ですみゅ?」
「どんな子って」
「何のための氷ですみゅ?」
理央は息を吸った。
創作ノートの中の氷フォーム。
ただ敵を凍らせる子ではなかった。
ページの端に、自分で書いていた言葉が浮かぶ。
“あつくなりすぎた心を、少しひやして、ほんとの声をきく子”
理央は叫んだ。
「熱くなりすぎた心を、少し冷やす子! 本当の声を聞くための氷!」
「みゅ!」
ミュオパルの額の青い星が、強く光った。
スターストリームがもう一度渦巻き、氷の光が炎のジュソモンへ向かって伸びる。
炎が少しずつ、透明になっていく。
赤黒い外側の火が割れ、その奥に、別の色が見え始めた。
暗い赤。
すすけた橙。
そのもっと奥に、小さな白い光。
ミュオパルが言った。
「見えてきたですみゅ」
「何が」
「ほんとうのジュソモンですみゅ」
炎のジュソモンの胸の奥で、何かが震えていた。
理央は、目をこらした。
大きな炎の怪物の中に、小さな影がある。
うずくまっている。
すすだらけで、ぼろぼろで、今にも消えそうなほど小さい。
その子は、両手で顔をおおって、しくしく泣いていた。
「つらいよ」
小さな声がした。
「いやだよ」
炎の音にかき消されそうな声。
「こわいよ」
猪狩くんが、はっと顔を上げた。
理央にも聞こえた。
猪狩くんにも、たぶん聞こえている。
「ぼくばっかり、お兄ちゃんにしないで」
炎のジュソモンの外側が、びくりと震えた。
「ぼくも、今日くらい、すごいねって言われたかった」
猪狩くんの顔がくしゃっと歪む。
「ぼくも、子どもでいたかった」
炎が、一瞬だけ弱まった。
ミュオパルは、静かに言った。
「怒りの奥にいた子ですみゅ」
理央は、小さな震えている影を見つめた。
あれが、本当のジュソモン。
大きくて怖い炎ではなく、その奥で泣いていた小さな子。
猪狩くんの中に、ずっといた子。
ミュオパルは、猪狩くんのほうを見た。
「猪狩」
猪狩くんは、炎の中で震えている。
「その子がいってることに、耳を傾けてあげてほしいですみゅ」
ミュオパルの声は、小さいのに、炎の中ではっきり聞こえた。
「その子は、君が見ないふりをしてきた子ですみゅ」
猪狩くんは、首を振った。
「知らない」
「知ってますみゅ」
「知らない!」
炎がまた強くなる。
でも、さっきより弱い。
小さなジュソモンの泣き声が、もう消えない。
「君がみつけて、抱きしめてあげるしかないんですみゅ」
猪狩くんは、立ち尽くした。
理央は、唇を噛んだ。
自分が言っていいのかわからなかった。
でも、言わなきゃいけない気がした。
「猪狩くん」
炎の中の猪狩くんが、理央を見る。
理央は、手を握りしめた。
「その子、ずっと泣いてる」
「……」
「聞いてあげて」
猪狩くんの顔が、怒ったように歪んだ。
「お前に何がわかるんだよ」
「わかんないよ」
理央は言った。
「猪狩くんの家のこと、全部はわかんない」
それから、少し声を強くした。
「でも、泣いてるのは見える」
猪狩くんは、何も言わなかった。
炎の中の小さなジュソモンが、また泣いた。
「つらいよ」
「いやだよ」
「ぼくばっかり」
猪狩くんの手から、ルビーがこぼれ落ちた。
赤黒く濁ったルビーが、炎の中で転がる。
猪狩くんは、ゆっくりと小さなジュソモンへ歩き出した。
炎が道をふさぐ。
ミュオパルが氷の光を送る。
理央も、胸の前で手をぎゅっと握る。
猪狩くんは、一歩、一歩、炎の奥へ進んだ。
そして、小さなジュソモンの前に膝をついた。
「……俺」
声がかすれている。
「俺、知らないふりしてた」
小さなジュソモンが、顔を上げた。
すすだらけの顔。
涙でぐしゃぐしゃの目。
「俺だって、嫌だった」
猪狩くんの声が震えた。
「でも、嫌だって言ったら、家が回らない気がした」
小さなジュソモンが、手を伸ばす。
猪狩くんは、迷った。
それから、その小さな体を抱きしめた。
炎が、音もなく揺れた。
「ぼくばっかりって、思ってた」
猪狩くんが言った。
「つらかった」
小さなジュソモンが、猪狩くんの胸で泣き出す。
大きな声ではない。
しくしく、しくしく。
でも、その泣き声が響くたび、赤黒い炎が少しずつ薄くなっていく。
理央は、息を吐いた。
ミュオパルの氷フォームの光も、少し柔らかくなる。
星火事の火の粉が、夜空へ昇っていく。
赤い火の粉は、途中で青白い星の粒に変わり、ふわふわと消えていった。




