第四章 ルビーの猪狩くん
次の日、理央はいつもより少しだけ早く目が覚めた。
枕元を見る。
紺色の布に包まれたオパールは、ちゃんとそこにあった。
理央は布団の中から手を伸ばし、そっと布を開く。
白く濁ったオパールの中で、小さな光がころんと動いた。
「……ミュオパル?」
「みゅ……」
眠そうな声がした。
理央は、ほっと息を吐いた。
夢じゃなかった。
昨日の夜、小さな白いジュエモンが生まれたことも、理央の創作ノートを見て「すごいですみゅ」と言ったことも、「理央のところに来たかったですみゅ」と言ったことも、全部本当だった。
「朝だよ」
「みゅ……朝は、もう少しあとでもいいですみゅ」
「学校あるから」
「学校……」
オパールの中で、ミュオパルがもぞもぞ動く気配がした。
「猪狩がいるところですみゅ?」
「いるね」
「みゅ。警戒ですみゅ」
「しなくていいよ。ふつうにしてて」
「ふつうに、みゅーってしますみゅ」
「それはふつうなの?」
「ミュオパルにとっては、ふつうですみゅ」
理央は小さく笑った。
制服に着替え、朝ごはんのトーストを食べ、陸を起こして、ランドセルの中に教科書を入れる。
最後に、オパールを紺色の布ごと小さな巾着に入れて、ランドセルの内ポケットにしまった。
「苦しくない?」
「みゅ。ちょうどいい暗さですみゅ」
「暗いの好きなの?」
「光る準備の暗さは好きですみゅ」
「またむずかしいこと言う」
「みゅふ」
ランドセルの中から、かすかな笑い声がした。
学校へ向かう道は、いつもと同じだった。
電柱の影。通学路の白線。交差点の黄色い旗。朝の空気。
でも、ランドセルの中にミュオパルがいると思うと、いつもの道が少しだけ違って見えた。
ひとりじゃない。
そう思っただけで、足取りが少し軽くなる。
教室に入ると、昨日の鑑定の話でいっぱいだった。
「見て、私のサファイア、朝になったら羽の形が出てきた!」
「俺のガーネット、ちょっと熱いんだよ」
「Bランクだったけど、育て方によってはA相当になるって」
机の上に宝石ケースを置いている子もいた。
小さなジュエモンが、すでに姿を現している子もいる。
透明な羽を持つ鳥のようなジュエモン。
小さな角のある鹿みたいなジュエモン。
水滴の体をした魚みたいなジュエモン。
みんな、自分のジュエモンを見せ合って、きゃあきゃあ騒いでいた。
理央は自分の席に座り、ランドセルを机の横にかけた。
内ポケットの中で、ミュオパルが小さく動く。
「みゅ……にぎやかですみゅ」
「静かにしててね」
「了解ですみゅ」
そのとき、教室の入り口がざわっとした。
猪狩悠斗が入ってきたのだ。
昨日の鑑定でAランクのルビーに選ばれた猪狩くんは、今日もみんなの注目の的だった。
胸元には、赤い宝石ケース。
その中で、ルビーが燃えるように輝いている。
「猪狩、ジュエモン出た?」
「まだ完全には。でも、ほら」
猪狩くんがケースを開くと、赤い光がふわりと立ち上がった。
光の中に、小さな獣の形が浮かぶ。
炎のたてがみ。
鋭い爪。
赤い尾。
まだ半透明だけれど、明らかに強そうだった。
「うわ、かっこいい!」
「火属性?」
「絶対強いやつじゃん」
猪狩くんは、少し得意そうに笑った。
「まあ、Aランクだからな」
その笑い方は、昨日と同じだった。
うれしそうで、でも、どこか硬い。
理央は見ないふりをして、教科書を机に入れた。
しかし、猪狩くんのほうから近づいてきた。
「七瀬」
理央は顔を上げる。
「……何」
「お前のFランク、出た?」
周りの何人かが、ちらっとこちらを見る。
理央は、ランドセルの内ポケットを押さえた。
「出たけど」
「へえ。見せてよ」
「いや」
「なんで」
「見せたくないから」
言ったあとで、理央は少し驚いた。
昨日なら、たぶん「別にいいけど」と言っていた。
でも今日は、そう言いたくなかった。
内ポケットの中で、ミュオパルがぴくっと動く。
「みゅ……理央、えらいですみゅ」
「静かに」
理央は小声で言った。
猪狩くんが眉をひそめる。
「何?」
「何でもない」
「変なの」
猪狩くんは笑った。
「どうせ、弱そうなやつなんだろ」
理央の胸が、ぎゅっとなる。
でも、その瞬間、ランドセルの内側から小さな声がした。
「みゅ」
理央はあわててランドセルを押さえた。
「何か鳴った?」
猪狩くんが目を細める。
「鳴ってない」
「鳴っただろ」
「鳴ってない」
「見せろよ」
「いやだって言ってる」
理央がそう言ったとき、チャイムが鳴った。
先生が教室に入ってくる。
猪狩くんは舌打ちしそうな顔をしたが、自分の席へ戻った。
理央は胸をなでおろす。
「ミュオパル」
「みゅ」
「怒ってくれたのはわかったけど、今は出ないで」
「でも、猪狩、失礼ですみゅ」
「そうだけど」
「理央のミュオパルを弱そうって言ったですみゅ」
「まあ、実際ちょっと弱そうだし」
「理央まで言うですみゅ!?」
ランドセルの中で、ミュオパルがショックを受けた気配がした。
理央は思わず笑いそうになり、あわてて口を押さえた。
一時間目は算数だった。
理央は、いつものように途中からわからなくなった。
黒板には分数の計算が並んでいる。
先生の説明は聞いているつもりなのに、数字が頭の中でぐにゃぐにゃになる。
気づくと、ノートのすみに小さな氷のジュエモンを描いていた。
耳は結晶みたいに透明で、しっぽは氷砂糖のようにきらきらしている。
名前はまだない。
ただ、横に「こおりフォーム?」と書いた。
その瞬間、ランドセルの中のオパールが、かすかに光った。
理央は鉛筆を止める。
「七瀬さん」
先生の声に、理央はびくっとした。
「はい」
「この問題、次の行どうなる?」
「えっと……」
黒板を見る。
わからない。
クラスの空気が少しだけ静かになる。
理央は立ったまま、ノートを握った。
「……すみません。わかりません」
先生はため息をつかなかった。
ただ、「じゃあ、途中まで一緒にやろうか」と言ってくれた。
それでも、理央の耳は熱くなる。
席に座ると、後ろのほうで小さく笑う声がした。
誰かは見なかった。
でも、猪狩くんの声が混じっている気がした。
休み時間、理央はトイレに行くふりをして、ランドセルから巾着を取り出し、廊下の端にある空き教室へ向かった。
そこは普段、教材置き場になっている。昼休み以外はあまり人が来ない。
理央はドアを閉め、巾着を開いた。
ミュオパルが、ぽんっとオパールから出てきた。
「みゅ! 理央、算数、敵ですみゅ?」
「敵じゃない」
「でも、理央を困らせてましたみゅ」
「困ってたのは私」
「算数、強敵ですみゅ」
「そうかも」
理央は、床に座りこんだ。
ミュオパルは、理央の膝の上にぽすんと乗る。
「さっきの氷の絵、見た?」
「見ましたみゅ」
「勝手に見ないで」
「光ってましたみゅ」
「え?」
「理央のノートの絵、少し光ってましたみゅ」
理央は首をかしげた。
「光ってた?」
「みゅ。こおりの子ですみゅ」
「ただの落書きだよ」
「落書きじゃないですみゅ」
ミュオパルは、また真剣な顔になった。
「理央の中から出てきた形ですみゅ」
「でも、授業中に描いてたら怒られるやつ」
「それは、あとで算数もやるですみゅ」
「急に正論」
「でも、描いた子は、いないことにしなくていいですみゅ」
理央は黙った。
ミュオパルは、小さな前足で理央の膝をぽふぽふ叩いた。
「理央の中には、いろんな形がありますみゅ。ほのおも、こおりも、葉っぱも、音も、影も」
「……全部、私の妄想だよ」
「妄想は、まだ形になる前の星かもしれないですみゅ」
「何それ」
「今、思いついたですみゅ」
「思いつきで言わないで」
理央は笑った。
ミュオパルも「みゅふ」と笑う。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
理央はあわててミュオパルを抱えた。
ドアががらっと開く。
入ってきたのは、猪狩くんだった。
「七瀬、何してんの」
理央は固まった。
ミュオパルも、理央の腕の中で固まった。
猪狩くんの目が、ミュオパルに向く。
「……何それ」
「ぬいぐるみ」
理央は即答した。
「動いてるけど」
「最新式」
「鳴いたけど」
「音声つき」
「ジュエモンだろ」
理央は黙った。
猪狩くんは、じろじろとミュオパルを見た。
ミュオパルは、理央の腕の中で胸を張った。
「みゅ」
「……ちっさ」
猪狩くんが言った。
ミュオパルの耳がぴんと立つ。
「失礼ですみゅ!」
「しゃべった」
猪狩くんは少し目を丸くしたが、すぐに笑った。
「何だよ、その語尾。みゅって」
「ミュオパルはミュオパルですみゅ」
「弱そう」
「また言ったですみゅ!」
ミュオパルがぷるぷる震える。
理央は腕に力を入れた。
「猪狩くん、やめて」
「別に、本当のことだろ。俺のルビー見たあとだと、よけいそう思うわ」
猪狩くんは胸元のケースを軽く叩いた。
赤いルビーが光る。
半透明の炎獣が、その中でゆらりと動いた。
ミュオパルは、少しだけ理央の腕の中に引っ込んだ。
たしかに、強そうだった。
ミュオパルとは全然違う。
猪狩くんは言う。
「ジュエモンってさ、役に立ってなんぼだろ」
理央は、胸の奥がちくっとした。
「守れるとか、戦えるとか、評価されるとか。そういうのがなきゃ意味なくない?」
「そんなこと」
「あるだろ。家でも学校でも、できるやつが頼られるんだよ。できないやつは、ただ邪魔」
その言い方が、やけに強かった。
理央は、猪狩くんの顔を見た。
笑っている。
でも、やっぱり目が笑っていない。
「……猪狩くん」
「何」
「疲れてるの?」
言った瞬間、猪狩くんの顔が変わった。
笑いが消える。
「は?」
「いや、なんか」
「何それ。お前に関係ないだろ」
「うん」
「Fランクのくせに、人の心配?」
理央は言葉につまった。
ミュオパルが、小さく「みゅ」と鳴いた。
猪狩くんは、吐き捨てるように言った。
「自分の心配してろよ」
そして、空き教室を出ていった。
ドアが乱暴に閉まる。
理央はしばらく、その場に立っていた。
「……何なの」
胸が痛い。
腹も立つ。
でも、それだけではなかった。
猪狩くんの最後の顔が、頭から離れない。
疲れてるの、と聞いたときの顔。
一瞬、怒る前に、泣きそうな顔をした気がした。
「理央」
ミュオパルが、小さく言った。
「猪狩、火のにおいがしましたみゅ」
「火?」
「ルビーの火ですみゅ。でも、あったかい火じゃなかったですみゅ」
「どういうこと?」
「うまく言えないですみゅ」
ミュオパルは、耳をしゅんと下げた。
「でも、あの火、すこし苦しそうですみゅ」
理央は、閉まったドアを見つめた。
「苦しそうでも、私にあんなこと言っていいわけじゃない」
「そうですみゅ」
ミュオパルはすぐにうなずいた。
「それは別ですみゅ」
理央は、少し驚いてミュオパルを見る。
ミュオパルは、真剣な顔をしていた。
「つらいことと、誰かを傷つけていいことは、別ですみゅ」
「……うん」
理央は、ゆっくりうなずいた。
それをミュオパルがちゃんとわかってくれていることが、少しうれしかった。
放課後、理央は日直の手伝いで、プリントを職員室へ運んでいた。
廊下の向こうで、先生が猪狩くんに声をかけている。
「猪狩、悪いんだけど、この箱を資料室まで運んでくれる?」
「あ、はい」
「助かる。猪狩は頼りになるな」
猪狩くんは、笑って箱を持ち上げた。
重そうだった。
でも、誰も「重い?」とは聞かない。
別の先生も言った。
「そういえば猪狩くん、今日も下の子のお迎え?」
「はい」
「えらいわねえ。お兄ちゃんだものね」
猪狩くんは、また笑った。
「はい」
理央は、その「はい」を聞いた。
短くて、きちんとしていて、でも、どこか薄い声だった。
胸元のルビーが、かすかに赤く光った気がした。
理央のランドセルの中で、ミュオパルが小さく震える。
「みゅ……」
「どうしたの」
理央は小声で聞いた。
「火が、また強くなったですみゅ」
理央は、猪狩くんの背中を見た。
大きな箱を抱えて、まっすぐ歩いている背中。
みんなが頼る背中。
でも、その背中が、ほんの少しだけ重そうに見えた。
その夜、理央は家で宿題をしていた。
お母さんは今日も遅くなると連絡があった。
お父さんもまだ帰らない。
夕飯は冷蔵庫に作ってあったカレーを温めればいい。
陸はテレビを見ている。
理央は、算数のプリントを前に、鉛筆を握ったままぼんやりしていた。
「理央」
机の上で、ミュオパルがころんと転がった。
「算数、進んでないですみゅ」
「わかってる」
「こおりフォームの絵は進んでますみゅ」
「それもわかってる」
理央はノートを見た。
算数のプリントの横に、創作ノートを開いてしまっている。
氷フォームのミュオパル。
耳は氷の結晶。しっぽは氷砂糖。額のオパールには青い星。
思ったよりかわいく描けた。
「ミュオパル、こういうのになれたらいいのにね」
「みゅ?」
「氷フォーム」
「なれるかもですみゅ」
「え?」
「わかんないですみゅ」
「わかんないのに言ったの?」
「でも、理央が描いてくれたですみゅ」
「描いたらなれるの?」
「たぶん、何かの形にはなるですみゅ」
理央は首をかしげた。
ミュオパルの言うことは、いつも少しふわっとしている。
でも、完全にでたらめとも思えなかった。
そのとき、スマホが鳴った。
お母さんからだ。
『ごめん、少し遅くなる。カレー温めて、陸と先に食べてて』
理央は返信する。
『わかった』
送ってから、少しだけ画面を見つめる。
本当は、今日あったことを話したかった。
ミュオパルのこと。
猪狩くんに見られたこと。
猪狩くんのルビーの火が苦しそうだったこと。
でも、どう説明すればいいかわからない。
理央はスマホを置き、立ち上がった。
「陸、カレー食べるよ」
「はーい」
台所でカレーを温めていると、外で遠く、犬が吠えた。
それから、どこかでサイレンのような音がした。
最初は救急車かと思った。
でも、違う。
音は一瞬で消えた。
ミュオパルが、机の上でびくっと耳を立てる。
「みゅ……」
「どうしたの」
「火のにおいですみゅ」
「火?」
理央が窓の外を見る。
夜の住宅街の向こうが、かすかに赤く光っていた。




