人間代表として
時間の神と、普通の会社員が、同じ悩みを共有している。その状況が、なんとなく可笑しかった。宇宙的な存在と、月曜日が嫌いな会社員が、慣れることの困難さについて話している。
「一つ聞いていいですか」と結人は言った。
「どうぞ」
「ベルフェゴールさんが今日、一生に一度と言っていました。人間を見ていたい、と。あの人は、本当にずっとそう思っていたんですか。千年以上、そう思い続けていたんですか」
クロノスはしばらく考えた。
「ずっと」と静かに言った。
「ずっと、そう思っていたと私は思います。ただ、言えなかった」
「なぜ言えなかったんでしょう」
「悪魔が人間を好む、というのは、立場上、言いにくいことです」とクロノスは言った。
「あの人には矜持がある。千年以上、一貫した立場を取ってきた。それを崩すことへの抵抗があったのかもしれない。あるいは、認めてしまうことで、何かが変わってしまうのが怖かったのかもしれない」
「怖かった、というのは」
「長い時間、一つの立場を守り続けることで、その立場が自分の一部になる。それを手放すことへの怖さです。悪魔として滅亡を望む、それが自分だと思っていた。それを手放したとき、自分が何者かわからなくなるかもしれない」
「でも今日、手放した」
「手放したというより」とクロノスは言った。
「新しいものを付け加えた、という方が正確かもしれない。滅亡を望む自分が消えたわけじゃない。でも、人間を面白いと思う自分を認めた。どちらも本当だ、ということを、今日初めて言えた」
「それは、あなたが引き出したんだろう」とクロノスは言った。
「あなたが愚かさを含めて愛おしい、と言った。ベルフェゴールは、そういう言い方を今まで聞いたことがなかったと思います」
「俺は自分の感覚を言っただけで」
「知らないからこそ、届いた」とクロノスは言った。「知っていたら、どこかに配慮してしまう。知らないから、ただ自分が感じることを言えた。それが一番強い言葉になる。この場では特に」
結人はそれを少し考えた。
知らないからこそ届く言葉がある。
自分の無知が、この場では武器になった。それが奇妙で、でもありがたかった。
「クロノスさんに一つ聞いていいですか」と結人は言った。
「どうぞ」
「俺が人間代表に選ばれた理由を、前に聞きました。答えを急がない人間だから、と」
「はい」
「今日の後で、その理由が変わりますか」
クロノスは少し考えた。
「変わりません」とやがて言った。
「ただ、付け加えるとすれば。あなたは、自分が何を言うべきかより、自分が何を見たかを大切にする人間です。それが今日の会議に届いた。見たものを、見たまま言える人間は、多くない」
「そんなに難しいことですか」
「難しいです。多くの人間は、見たものを整理してから話そうとする。整理する過程で、一番大事な部分が削れることがある。あなたは整理しなかった。整理できていないまま、でもそのまま言った。だから届いた」
結人は、自分が今日どんな話をしたか、もう一度思い出した。
祖母の話は、整理していなかった。話しながら思い出した。電車の話も、準備していなかった。あの場で浮かんだ。
整理していなかったから、届いた。
「この会議の記録は、永遠に残ります」とクロノスは言った。「今日の全会一致も、あなたが言った言葉も、全部残ります。何百年後に誰かがこの記録を見ても、三百七十八回目の会議で、天城結人という人間代表が、祖母の笑顔の話をした、と残っています」
「……それは、重いですね」
「そうですか」
「重いですが、嫌じゃないです」と結人は言った。「自分の言葉が残ること。それが何百年後の誰かに届くかもしれないこと。それは、手紙を書くことに似ているかもしれない。今ここにいない誰かに向けて書く手紙。書いた人間は、届いたかどうかわからないまま死ぬかもしれないけど、言葉は残る」
「いい比喩です」とクロノスは言った。
「あなたが今日ここで言った言葉は、ある意味で、未来の誰かへの手紙でもあります。三百七十九回目の会議の参考になるかもしれない。四百回目の会議の誰かが、天城結人という人間代表の言葉を読むかもしれない」
「俺が死んだ後でも、ということですか」
「そうです」
「……なんか、不思議な感じがします」
「人間はみんな、そういう形で何かを残します。手紙じゃなくても、言葉じゃなくても、行動でも、影響でも。あなたの祖母が残した笑顔が、今日ここまで届いたように」
「……そうですね」
「では、また次の会議で」とクロノスは言った。
「はい。次の会議も、夕方あたりに呼んでもらえると嬉しいです」
「夕方が安定していることがわかりましたので、しばらくはその時間帯にします」
「ありがとうございます。あと、お昼ご飯を食べた後だとなおいいです。最近、昼食を召喚に持っていかれることが多くて」
「精進します」
「精進でお願いします」
クロノスは少し笑って、立ち上がった。
時間の神が立ち上がる瞬間、周囲の空気が少し変わる気がした。気のせいかもしれない。でも、何かが動く感じがある。時間そのものが、少し動くような。
「クロノスさん」と結人は言った。
「何でしょう」
「次の会議まで、また日常を過ごします。電車に乗って、公園を歩いて、誰かに電話して。そういう日常の中で見るものが、また会議に届きますか」
「届きます」とクロノスは言った。
「きっと」
「じゃあ、ちゃんと見てきます」
「そうしてください」とクロノスは言った。
「それが、人間代表の準備です」




