時の神とただの社会人
「少し、残れますか」
クロノスが言った。いつもの流れだった。
「はい」
円卓に、クロノスと結人だけが残った。
退席した三人の気配が消えて、会議室が広くなった気がした。宇宙だけがある。地球の映像は消えていて、本物の宇宙だけがある。星がある。遠い銀河がある。光の届くところに、何かがある。
どこかで今も星が生まれているかもしれない。どこかで今も星が死んでいるかもしれない。宇宙のスケールでは、それが同時に起きている。人間の時間とは、全然違う時間が流れている。
「今日は、特別な日でした」とクロノスは言った。
「全会一致のことですか」
「そうです。三百七十七回、一致したことがなかった。正確には、全員が同じ理由で一致したことがなかった。それぞれが違う理由で同じ方向を向いた今日も、同じではないかもしれない。でも、方向としては一致した。そういう意味での全会一致です」
「それぞれが違う理由、というのは」
「ラファエルは、祖母の話に新しいものを見つけた。アトラスは処理が遅くなった。ベルフェゴールは、お前の言葉が何かを引き出した。私は、議長として言えないことを代わりに言ってもらった。四人が、それぞれ別のことを経験して、同じ方向に向かった」
「それって、すごいことですね」
「そうです。一致するためには、一つの理由が全員を動かすより、それぞれが別の理由で動く方が難しい。それが今日起きた」
「なぜ今日起きたんでしょう」
「あなたがいたから、だと思います」とクロノスは言った。
「俺が特別なわけじゃないですが」
「特別な人間が来る必要はありません。普通の人間が、普通のことを話せばいい。普通のことを話す人間が来たことが、よかったのかもしれない」
「それはどういうことですか」
「特別な論理で説得しようとする人間は、この場では空回りすることが多かった。専門家として来た人間も、哲学者として来た人間も、政治家として来た人間も、それぞれに優秀でしたが、この場で届く言葉を持っていなかった」
「なぜですか」
「この場にいる存在たちは、人間を数千年見てきています。専門的な知識は、すでに知っている。新しい論理も、たいていは過去に聞いたことがある。でも、普通の一人の人間が、自分の目で見たものを話す言葉は、違う。三十七億人のデータよりも、一人の個人の記憶が、時に届くことがある」
「祖母の笑顔の話が、それだったんでしょうか」
「そうだと思います」とクロノスは言った。
「あの話は、誰も予測していなかった。ベルフェゴールも、ラファエルも、アトラスも。私も、です。予測していなかったものが届いた。それが、一致を生んだ」
結人は少し、それを考えた。
予測していなかったものが届く。
それはたぶん、会議室の外でも同じことだ。予測していなかった言葉が、誰かに届くことがある。計算していない行動が、誰かを動かすことがある。
荷物を拾った人たちも、計算していなかった。
「クロノスさんは」と結人は言った。
「今日の全会一致を、どう思いましたか」
クロノスは少し間を置いた。
「……嬉しかったです」
珍しい言葉だった。クロノスが嬉しかった、と言うのは。感情を表に出すことが、この人には少ない。議長だから、というのもあるだろう。でも今日は、言った。
「時間の神が、嬉しいと感じるんですか」
「感じます。たまに」とクロノスは言った。
「時間が見えすぎると、感情が薄くなることがある。何が起きても、いつかは変わると知っているから、強く感じにくくなる。嬉しいことが起きても、これもいつか変わると知っている。それが感情を薄くする」
「それは、つらくないですか」
「つらい、という感情も薄くなるので」とクロノスは言った。少し苦い口調で。
「なるほど」
「でも今日は、嬉しかった。今日この瞬間の全会一致が、嬉しかった。それがいつか変わるとしても、今日は嬉しい。それを感じられたことが、嬉しかった」
「嬉しいことが嬉しかった、ということですね」
「そうなりますね」とクロノスは少し笑った。
「会議室でそういうことを言うのは、議長として適切かどうかわかりませんが、今日は言ってもいい気がして」
「俺には言ってもらえるんですか」
「あなたは人間代表ですから。人間的な感情を持って聞いてもらえる」
「それは俺にも、少しわかります。知りすぎると、感じにくくなること」
「何がわかりますか」
「会社でも、業務に慣れるほど、最初に感じた喜びや驚きが薄くなっていく。初めて自分のプレゼンが通ったとき、本当に嬉しかった。今は、通っても当たり前のように感じてしまう。それが悪いことだとは思わないけど、あの最初の嬉しさは戻ってこない」
「似ていますね」とクロノスは言った。
「時間の神も、社会人も、慣れることがある」
「慣れないようにするには、どうすればいいんですかね」
「私が聞きたいくらいです」とクロノスは言った。
ふたりで、少し笑った。




