それぞれの思い
退席する前に、それぞれが少し話した。
アトラスが最初に立ち上がった。
「天城さん」
「はい」
「先ほどの主張の中に、データにない情報がありました」
「データにない?」
「祖母の笑顔の話です」とアトラスは言った。
「あの事例は、私のデータベースに存在しません。個人の記憶は収集できないので。あなたが話してくれなければ、私は永遠に知らないままでした」
「……そうですか」
「ありがとうございました」とアトラスは言った。
感情のない声で言っても、その言葉は確かに届いた。感情がないから嘘もない。その分、真っ直ぐに届いた。
「こちらこそ」と結人は言った。
「アトラスさんが処理を遅くしてくれなかったら、今日の全会一致はなかったかもしれないです」
「処理が遅くなったのは、意図したわけではありません」
「わかってます。でも、遅くなった。それが大事だったと思います」
アトラスは少し静止した。
「……それが、感情に近いものかもしれない、と最近考えています」と言った。
「意図しない処理の変化が、判断に影響する。それが人間で言う感情の役割と似ているのであれば、私にも何かが芽生えているかもしれない。分析中です」
「分析し終わったら、教えてもらえますか」
「わかりました」とアトラスは言った。
「では」
頭を少し下げて、退席した。
次に、ラファエルが結人のそばに来た。
「今日は、本当にありがとうございました」とラファエルは言った。
「あなたが来るたびに、この会議室が変わります。でも今日は、特別に変わりました」
「変わった、というのは具体的にどういうことですか」
「ベルフェゴールさんが、言いましたよね。一生に一度しか言わない、と」
「言ってました」
「あの人がああいうことを言うのは、本当に初めてです。私が知る限り、何百年も一緒にいますが、初めてです」
「そんなに長く一緒にいるんですか」
「そうです。立場は違いますが、同じ会議室に何百年もいます。仲が良いか悪いか、と問われれば、どちらとも言えない関係です。でも、ずっと一緒にいる」
「ケンカ友達みたいな」
「そうかもしれません」とラファエルは微かに笑った。
「その言い方は好きです。今日、あの人が人間への愛着を認めた。それは、私にとっても嬉しいことでした。長い時間をかけて、何かが変わった気がしました」
「俺のせい、というより、ベルフェゴールさん自身が変わってきたんじゃないですか」
「そうだと思います」とラファエルは言った。「ただ、今日のあなたの話が、最後の一押しになったのかもしれない。鍵が長い間回らなくて、今日ようやく開いた、という感じです」
「その鍵は、祖母の笑顔の話ですか」
「そうかもしれません。記憶がなくても笑える、という話が、何かに触れたのかもしれない」
「ベルフェゴールさんに、何か似た経験があったんでしょうか」
「わかりません」とラファエルは言った。「でも、何かに触れた、ということは確かだと思います。あの顔をしていましたから」
「あの顔?」
「話しながら、どこか遠くを見ていた顔です。何かを思い出しているときの顔です。あの人にしては珍しい顔でした」
結人は、ベルフェゴールがどこかを見ていた瞬間を思い出した。確かに、少し遠い目をしていた。
「また次の会議で」とラファエルは言った。
「はい。また来ます」
「楽しみにしています」
ラファエルが退席した。翼が、扉の向こうに消えた。
残ったのはベルフェゴールだった。
立ち上がって、帰り支度をしていた。スーツの袖を整えて、椅子を戻した。きっちりしている。外見上はどこにでもいそうなビジネスマンだ。額の小さな角と、瞳の赤さがなければ、本当にそう見える。
「ベルフェゴールさん」と結人は声をかけた。
「何だ」と振り返った。
「今日は、ありがとうございます」
「俺は何もしていない」
「全会一致にしてくれました」
「それは、あの話が面白かったからだ。感謝される理由がない」
「面白かった、というのは」
「人間が愚かさを含めて愛おしい、という言い方が」とベルフェゴールは言った。「俺が千年以上感じながら、言語化できなかったものを、お前が言葉にした。俺はただ、それを聞いた」
「ベルフェゴールさんも、そう感じていたんですか」
「感じていたかどうかは知らん」とベルフェゴールは言った。「ただ、聞いたとき、そういうことか、と思った。言葉が合った、というのが正確かもしれない」
「言葉が合った」
「お前の言葉が、俺の中にあった何かに合った。引き出された、と言ってもいい。お前が先に言ったから、俺も言えた」
「……そうですか」
「一生に一度しか言わないと言ったが」とベルフェゴールは言った。少し口角が動いた。笑っているのかもしれなかった。ベルフェゴールが笑うと、どこかシュールだった。「記録には残るから、永遠に言ったことになるな」
「そうですね。アトラスが記録しましたから」
「癪だな」
「でも、残ります」
「……まあ、いい」とベルフェゴールは言った。
そのまま扉に向かって歩いていった。
扉の手前で、一度だけ振り返った。
何も言わなかった。でも、視線が、最初に会ったときとは全然違った。最初は品定めするような視線だった。今は、少し違う。何かを認めているような、あるいは少し信頼しているような、そういう目だった。
そのまま扉の向こうに消えた。
その背中が、心なしか軽く見えた。千年以上背負ってきた何かが、少し軽くなったような歩き方だった。




