採決:ベルフェゴールの意見2
円卓の表面を見ていた。指先で、その表面をわずかになぞった。木目のような模様が、指先をなめらかに通っていく。考えているときの癖だ、と結人はいつからか気づいていた。何かを整理しようとしているとき、ベルフェゴールは何かに触れる。物理的な感触が、思考を助けるのかもしれない。
悪魔にも、そういう癖がある。
それが、なんとなく人間らしかった。
会議室が静かだった。
地球の映像が、まだ円卓の中央に浮かんでいた。白い雲が少し流れた。大西洋あたりの雲だろうか。遠くから見ると、雲の動きもゆっくりに見える。
「千年以上、見てきた」とベルフェゴールは言った。
唐突に言った。独り言のような言い方だった。
「はい」と結人は答えた。割り込まないように。
「最初の頃は、本当に嫌いだった。人間というものが。約束を守らない。嘘をつく。殺し合う。破壊する。それだけならまだよかった。悪魔の立場からすれば、むしろ都合がいい。でも、そうじゃなかった」
「そうじゃなかった、というのは」
「同じ人間が、愛する、助ける、赦す、美しいものを作る。その矛盾が、どうしても理解できなかった。同じ個体が、殺しながら愛する。同じ集団が、戦いながら芸術を生む。何千年経っても、その矛盾が解消されない。俺はずっと、その矛盾を嫌っていた」
「今は」
「今は、まあ」とベルフェゴールは言った。
少し間があった。
「矛盾しているものだけが、意外なことをする、とわかってきた。一貫しているものは、予測できる。でも矛盾しているものは、予測できない。次に何をするかわからない。それが、ここまで見てきても飽きない理由だと、最近思う」
「最近、というのは」
「ここ百年くらい」とベルフェゴールは言った。
「百年を最近と言うんですね」
「千年単位で生きていると、そうなる」
「……確かに」と結人は言った。
百年が最近、という感覚は理解できないが、相対的にはそうなのだろう。
「結構面白い」と、ベルフェゴールは言った。
「え」
声がやわらかかった。普段とは違う種類のやわらかさだった。攻撃性のない声だった。武装を一枚脱いだような声だった。
「人間、結構面白い」と繰り返した。
「千年以上見てきて、飽きたことがない。毎回違う。毎回予想を裏切る。同じ過ちを繰り返しながら、でも同じじゃない。同じように見えて、少しずつ何かが違う。その少しずつ、というのが、俺には一番理解できなかった。なぜ少しずつなのか。なぜ全部一気に変えないのか。でも、最近、それが人間のやり方なんだとわかってきた」
「少しずつが、人間のやり方」
「そうだ。大きく変えることはできない。でも、少しずつなら変わる。それが積み重なって、百年後には別の何かになっている。俺にはそれが、非効率に見えていた。でも今は、それが唯一の方法なのかもしれない、と思っている」
「……ベルフェゴールさんが、そういうことを言うとは思わなかったです」
「一生に一度しか言わないから、記憶しておけ」とベルフェゴールは言った。
ラファエルが何か言いかけた。でも言わなかった。口を開いて、閉じた。言いたいことがあって、でも今は言わない方がいいと判断した、という顔だった。
「それを認めるのは癪だったが」とベルフェゴールは続けた。
今度はしっかりと、結人を見た。
「認める。お前の言い方を借りれば、俺にも愛着がある。人間への愛着が、千年以上かけて、どこかに育ってしまった」
「ベルフェゴールさん」とラファエルが言った。
声が湿っていた。このふたりが長い時間を共に過ごしてきたことが、その声の湿り方でわかった。
「お前は黙れ」とベルフェゴールは言った。
ラファエルに向かって。でも今日は怒っているわけじゃない。照れている、というのとも違う。ただ、うまく言葉にならないものが溢れそうになっていて、それを抑えているような感じだった。
「一生に一度しか言わないから聞いておけ」
「一生に一度」とラファエルが繰り返した。
声が震えていた。「そうですか、一生に一度」
「そうだ。聞くな、涙が出るだろう」
「もう少しで出るところでした」
「だから言ってる」
「続きを言ってください」とラファエルは言った。静かに。
「……人間は、まあ、今日のところは見ていたい」とベルフェゴールは言った。
「以上だ。それ以上は言わない」
「今日のところは、ですか」と結人は聞いた。
「今日のところは、だ」とベルフェゴールは言った。
「先のことは約束できん。だが今日の俺は、そう思っている」
「今日のところは、で十分だと思います」と結人は言った。
「なぜだ」
「今日の判断が、今日の世界を続けるから。明日のことは、明日の会議で決めればいい。今日は今日の保留がある。今日だけの全会一致があってもいい」
ベルフェゴールは何も言わなかった。
でも、微かに何かが動いた気がした。表情の、ほんの端っこが。怒っていない。呆れていない。何か別のものが、一瞬出てきた。
言葉にできない何かが、顔に出て、すぐに引っ込んだ。
「審議継続、ということですか」とクロノスが確認した。
「そういうことだ」




