議題:結人の意見(後編)
結人は少し考えた。
用意していた話があった。でも、もっと近いところにある話をしよう、と思った。遠い話じゃなくて、自分の中にある話を。
「うちの祖母が、認知症になった時期があって」と結人は言った。
静かに言った。
会議室が、少し静かになったような気がした。
「症状が進んで、施設に入ることになって。最後に家族で会いに行きました。その頃には、祖母はもう、俺の顔を覚えていなかった。俺のことを、誰かわからなそうにしていた。目が合っても、あなたは誰、という顔をしていた。名前を言っても、ぴんとこなそうだった」
「……はい」
「でも、俺が部屋に入った瞬間に、笑ってくれたんです」
誰も何も言わなかった。
「誰かわからないのに、笑ってくれた。名前も顔も覚えていないのに、俺が部屋に入った瞬間に、顔がほぐれて、笑ってくれた。その笑い方が、俺が子供の頃から知っている、祖母の笑い方だった。記憶がなくても、笑い方は変わっていなかった」
「それは」とラファエルが言った。声が、少し静かになっていた。
「たぶん、覚えていないけど、怖くないと思ったんだと思います。敵意がない人間だと、本能で感じたのかもしれない。あるいは、言葉で説明できない何かを、感じたのかもしれない。言葉も通じなくて、記憶もなくて、それでも笑える。人間ってそういうことができるんだ、と思いました。記憶より深いところに、何かが残っている。それが何なのか、俺にはうまく言えないけど、確かにあった」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ラファエルの目が、少し光っていた。ベルフェゴールは腕を組んだまま、視線を落としていた。アトラスは静止していた。クロノスは、結人を静かに見ていた。
「もう一つ言うと」と結人は続けた。
場の空気を変えるつもりはなかったが、続けた。
「電車で見た話をします。先週のことです。混んでた電車で、床に荷物を落とした人がいました。大きなバッグで、中身が少し散らばって。そのバッグを持っていたのは、年配の女性でした。慌てている様子だった。しゃがんで拾おうとしていた」
「はい」
「まわりの人間が何人か、すぐに拾い始めた。誰かに言われたわけじゃない。義務でもない。ただ、落ちたから拾った。スマートフォンを見ていた人も、目を閉じていた人も、気がついたら手を動かしていた。それだけのことです。でも、みんな拾った。バッグの持ち主がありがとうと言って、みんな少し笑顔になって、電車が動き始めた。十秒かそこらの出来事です」
「十秒の出来事」とラファエルが言った。
「そうです。十秒かそこらです。でも、それが好きでした。その十秒が、好きでした。この電車は悪くない、と思いました。この世界は、そんなに悪くないかもしれない、と思いました。それだけのことですが、本当にそう思いました」
「感情的な根拠です」とアトラスが言った。
批判ではない。ただの観察として言った。
「そうです」と結人は言った。
「でも、感情的な根拠で構わないと思っています。なぜなら、俺は感情を持つ生き物だから。感情を持つ生き物として、もう少し様子を見てほしいと思います。九十五パーセントの確率で滅ぶかもしれない。でも、今日の電車の十秒の出来事のような何かが、五パーセントの可能性の中にある気がします」
「五パーセントを信じる根拠は、それですか」
「それだけです。証拠はないです。論理的でもないと思います。でも、それが俺の意見です。俺が見てきた人間の姿が、その五パーセントを信じさせる」
「根拠が弱い」とベルフェゴールが言った。
でも、口調が、いつもより柔らかかった。
「弱いです」と結人は認めた。
「でも、弱い根拠しかない話というのが、ときどき一番本当のことだと思います。強い根拠のある話は、誰かが作ったものかもしれない。弱い根拠の話は、自分で見たものだから。整理できていない分、変に磨かれていない分、本当に近い気がします」
ベルフェゴールは何も言わなかった。
腕を組んだまま、少しだけ姿勢が変わった。前のめりになった、というのとも違う。肩の力が少し抜けた、という感じだった。
「一つ、聞いてもいいですか」と結人は言った。
「どうぞ」とクロノスが言った。
「この会議は、実際に世界を変える権限を持っているんですか。保留を続けることで、本当に世界は続いているんですか」
「直接的な因果関係の説明は難しいですが」とクロノスは言った。
「この会議が審議継続している間、滅亡プロセスへの介入は行われません。それは確かです」
「じゃあ、毎回保留にしてきたことで、世界は続いてきた」
「そう言えます」
「それって、すごいことですよね」と結人は言った。
「三百七十七回、誰かが保留にしてきた。この部屋で、何百年もかけて、毎回誰かが、まあ今回はやめとくか、って言ってきた」
「そうかもしれません」
「理由は毎回違ったかもしれないけど、でも毎回、誰かが止めた」
「はい」
「だから世界が続いている」
「結果として、そういうことになります」
結人は少し笑った。
考えながら、でも笑った。
「それが、この会議の答えじゃないですか」
「どういうことですか」とクロノスが言った。
「保留し続けることが、正解かもしれない。決めなくていいかもしれない。決めることが目的じゃなくて、ずっと見続けることが、答えかもしれない。見続けている間、世界は続く。見続けることと、世界が続くことが、一緒にある」
クロノスは、少し長い間、結人を見ていた。
会議室が静かだった。宇宙が見える天井の向こうで、星が静かに輝いていた。
「あなたは」とやがてクロノスは言った。
「議長が言えないことを、言いましたね」
「そうですか」
「そうです。私は議長だから、保留が正解かもしれないとは言えない。審議を誘導することになるから。でも、あなたは言えた。利害関係者として、言えた」
「それが人間の役割じゃないですか、この会議での」と結人は言った。
「外から見てる人たちには言えないことを、中から言う。当事者だから言える言葉がある。公平じゃないかもしれないけど、公平さだけが真実じゃない気がします」
クロノスは頷いた。
長い間の後で、静かに頷いた。
「では、今回の審議の結論を出しましょう」と言った。




