議題:結人の意見(プロローグ)3
ある水曜日、結人は会議室のことを思いながら電車に乗っていた。
窓の外を見ると、川が見えた。
普段は気にしない川だ。毎日この橋を渡っているのに、川を見た記憶がほとんどなかった。スマートフォンを見ていれば、窓の外なんて見ない。
でも今日は見た。
朝の川は、まだ光が低くて、水面が銀色に光っていた。川べりに鳥が一羽いた。サギだろうか。じっと川を見ていた。水の中の魚を待っているのかもしれない。それとも、ただ立っているだけかもしれない。鳥が何を考えているかは、わからない。
でも、その一羽の鳥が、川べりに立っているだけで、世界が少し豊かに見えた。
それだけのことが、嬉しかった。
嬉しい、という言葉が出てきたことが、また自分でも意外だった。
電車を降りてから、しばらくその感覚が残っていた。
昼休みに、同僚の木村が声をかけてきた。
「天城さん、最近なんか変わりました?」
「変わった?」
「なんかこう、前より穏やかな感じがして」と木村は言った。
入社三年目の後輩で、仕事はできるが少し余計なことを言う。
「以前は、ちょっとピリついてる感じがあったんですよね。怖いわけじゃないんですけど、近づきにくいというか」
「ピリついてたか」
「でも最近は、話しかけやすい気がして。あ、失礼なことを言ってたらすみません」
「いや、参考になる」と結人は言った。
ピリついていた。距離を置いていた。中田も同じようなことを言っていた。
自分ではわからなかったが、外から見るとそう見えていたらしい。
昼休みに、公園を歩くようにした。
会社の近くに小さな公園があって、今まであまり行ったことがなかった。ランチを買ってきて机で食べるか、近くのカフェに行くか、たいていそのどちらかだった。公園の存在は知っていたが、行く理由がなかった。というより、行く時間があるなら仕事の資料を見直したほうがいい、という考えがどこかにあった。
行ってみると、思っていたより静かだった。
会社のビルから歩いて五分もかからないのに、別の空気がある。ビル街の中に、小さな緑の場所がある。植えられている木が、季節ごとに少しずつ変わっていく。今は何の木か、名前を知らないが、葉が丸くて柔らかい緑をしていた。
ベンチがいくつかあって、鳩がいる。老人が新聞を読んでいる。子供が走り回っている。犬を連れた人が通り過ぎる。
何でもない風景だ。
でも何でもなくない気もした。
このずっと続いてきた日常を、誰かが終わらせようとしているかもしれない。宇宙のどこかで、神と天使と悪魔とAIが会議室に集まって、存続か滅亡かを話し合っている。滅亡確率が九十五パーセントという数字が、データとして提出されている。
それをこの人たちは知らずに、鳩に餌をやっていたり、犬を散歩させていたりする。
老人は今日も新聞を読みに来ている。昨日も来たのかもしれない。明日も来るかもしれない。その繰り返しの中に、その人の人生がある。新聞を開いて、記事を読んで、ページをめくって、また読む。誰かが見ていなくても、誰かに認められなくても、ただそれをする。そういう人が、世界中に何億人もいる。
「変な感じだ」
鳩に向かって言った。
鳩は気にしなかった。右を向いて、左を向いて、また右を向いた。鳩には鳩の都合があって、人間がどんな話をしていようと関係ない。その鈍感さが少しうらやましかった。
結人はベンチに座って、コンビニで買ったサンドイッチを食べた。
外で食べると、なんとなくうまかった。空気のせいかもしれないし、青空のせいかもしれない。それとも、さっきまでのことを頭から離せたせいかもしれない。
食べながら、会議室のことを考えた。
ベルフェゴールが言っていた。人間は愚かだ、と。繰り返す、学ばない、忘れる、と。
それは本当のことだと思う。否定しない。ニュースを見れば、毎日似たような出来事が繰り返される。学ばない、というより、人間の認知の限界なのかもしれない。自分に降りかかると思えないことは、リアルに感じられない。わかっていても、体が実感しない。それが設計上の問題だとしても、変えるのは難しい。
でも、公園の老人は今日も来た。犬を連れた人は今日も散歩させた。子供は今日も走り回った。その繰り返しの中に、何かがある。
愚かさと、その愚かさを抱えながらも続けること。その両方が、人間だ。
愚かさだけを見れば、ベルフェゴールの言う通りになる。でも続けることを見れば、別の何かが見える。その両方を合わせて、人間だ。そういうことを、ここに来てわかってきた気がする。
会議室と日常を行き来することで、初めて見えてくるものがある。
会議室にいるときは、人間全体を俯瞰で見る。日常に戻ると、目の前の一人を見る。その往復が、何かを変えていく。




