小さな成功
修行を始めて、十日が過ぎていた。
相変わらず、意図的に誓を発動させることはできていなかった。フェリクとの実戦稽古も、シャナによる追い込みも、あの夜のような切実さを再現するには至らない。焦りは募る一方だったが、それでも僕は、毎日同じ訓練を繰り返していた。
朝は目を閉じて記憶と向き合う訓練、昼はフェリクとの実戦形式の稽古、夜は一人で道場に残り、手のひらに意識を集中させる。その繰り返しの中で、成果らしい成果は何一つ得られていなかった。それでも、この日課をやめようとは思わなかった。やめてしまえば、あの夜の力は二度と戻ってこない気がしたからだ。
「今日も、駄目そうか」
道場の隅で、フェリクが声をかけてきた。彼はここ数日、自分の稽古を早めに切り上げて、僕の様子を見守るようになっていた。
「分からない。ただ、闇雲にやるしかない」
「シャナ殿は何て」
「覚悟が足りない、の一点張りだ」
そう言いながら、僕は自分の手のひらを見つめた。灰色の器。あの夜、確かに銀色に輝いたはずのそれは、今は頑なに沈黙を保っている。
「なあ、フェリク」
「何だ」
「お前が言っていたことを、ずっと考えてる。誓が羨ましい、って」
フェリクは少しばつが悪そうな顔をした。
「あれは、忘れてくれ」
「忘れない。でも、教えてほしい」
僕は木剣を下ろし、フェリクと向き合った。
「お前は、金色の器に生まれて、期待されて、努力もして、それでも足りないと感じるのか」
フェリクは少しの間、黙り込んだ。それから、ゆっくりと口を開いた。
「期待に応え続けるのは、それはそれで、しんどいものだぞ」
フェリクは自嘲するように、小さく笑った。
「金色の器に生まれたその日から、周りの目は決まってる。できて当たり前、失敗すれば器に見合わないと言われる。俺には最初から、選択肢なんてなかった」
その一言に、僕は初めて、フェリクの抱えているものの重さに気づいた気がした。灰色の器を持つ僕とは違う種類の重圧が、彼にもあったのだ。誰もが羨む金色を持ちながら、彼はずっと、その色にふさわしくあり続けなければならないという檻の中にいたのかもしれない。
「俺は、誰かに認められるために剣を振ってる。だが、お前の誓は違うだろう。お前自身の、譲れない何かのために力が出る。そこが、羨ましいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、何かが小さく音を立てた。
誰かに認められるためじゃない。譲れない何かのために。
その言葉が、これまでシャナに言われてきたどんな説明よりも、まっすぐに僕の中に落ちてきた。
もう一度、目を閉じる。母の顔を思い浮かべる。九年前の後悔。そして今度は、それだけではなかった。あの夜、僕が守った少女の顔。フェリクが羨ましいと言った、この不確かな力。それら全部が、一つの想いに繋がっていく。
僕は、誰かのために強くなりたいわけじゃない。認められたいわけでもない。ただ、二度と、目の前で誰も見捨てない。それだけだ。
手のひらの奥で、確かな熱が生まれるのを感じた。
「フェリク、見ててくれ」
目を開けると、手のひらに淡い光が灯り始めていた。灰色が、少しずつ、銀色へと変わっていく。
「おい……」
フェリクの声が上ずった。僕自身、驚きながらも、その光を消さないよう、意識を集中させ続けた。命の危険も、目の前の敵もない。ただ、静かな道場の中で、自分自身の意志だけで、その力を呼び起こしていた。
「シャナ殿! 見てください!」
フェリクが叫ぶと、道場の奥からシャナが駆けつけてきた。僕の手のひらに灯る銀の光を見て、彼女は一瞬、目を見開いた。
「やったな、ロナン」
その声には、いつもの飄々とした調子の中に、はっきりとした称賛が滲んでいた。
「まだ、少しだけです。すぐに消えてしまいそうで」
「それでいい。最初の一歩というのは、そういうものだ」
シャナは僕の手のひらを覗き込みながら、満足げに頷いた。
「命の危険もなければ、敵もいない。それでもお前は、自分の中の覚悟だけで、器を超えた。これは、思っていたより早い進歩だ」
光は、数秒と持たずに消えてしまった。それでも、僕の中には確かな手応えが残っていた。命の危険がなくても、覚悟さえあれば、誓は応えてくれる。それが分かっただけで、これまでの十日間とは全く違う地平が見えた気がした。
「ありがとう、フェリク」
「別に、俺は何も」
「お前の言葉がなかったら、今のはできなかった」
フェリクは照れ臭そうに顔を背けたが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「なら、次はもっと長く維持できるようになれ。俺も、負けてられないからな」
その言葉に、いつもの気安さが戻っていた。それでも、僕は知っていた。彼がさっき見せた本音は、決して軽いものではなかったということを。
道場の窓から差し込む光が、心なしか、いつもより温かく感じられた。灰色の器は、まだ完全に変わったわけではない。それでも、確かに一つ、階段を上った。そんな実感が、僕の胸の中にあった。
その夜、自室に戻ってからも、僕は何度も自分の手のひらを開いては閉じることを繰り返していた。あの数秒間の銀の輝きを、目に焼き付けておきたかった。九年間、変わらないと思い込んでいたものが、確かに動き出している。その事実だけで、明日からの修行に向き合う気力が、これまでとは違う形で湧いてくるのを感じた。




