修行と焦り
「もう一度だ」
シャナの声が、朝の道場に響く。開け放たれた窓から差し込む朝の光が、板張りの床に木剣の影を落としていた。僕は肩で息をしながら、地面に片膝をついていた。何度目の失敗か、もう数えるのをやめていた。
修行が始まって、五日が経っていた。
最初の二日は、ただひたすら意識を集中させる訓練だった。目を閉じ、あの夜の記憶と向き合い、手のひらの奥に意識を伸ばす。だが、灰色の表面が微かに揺らぐだけで、銀の光が灯ることは一度もなかった。三日目からは実戦形式の稽古が加わり、シャナ自らが木剣を手に、僕を追い詰めるようになった。それでも結果は変わらなかった。焦りだけが、日を追うごとに積み重なっていく。
「誓を発動させろ、というのは簡単ですけど……」
「簡単だとは言っていない。だが、できないわけでもないだろう。あの夜、お前は確かに成し遂げた」
シャナの言葉は正しい。あの夜、僕は確かに誓を発動させた。だが、あれは絶体絶命の瞬間、九年間抱えてきた想いが限界を超えて溢れ出した結果だった。今、道場のような穏やかな環境で、同じことを意図的に再現しろと言われても、簡単にできるものではなかった。分かってはいる。それでも、心のどこかで「無理だ」と呟く自分がいた。
「もう一度、あの時の想いを思い出せ。二度と、目の前で誰も見捨てない――その言葉を、心の底から信じられる状態を作るんだ」
「信じてます。本当に」
「頭で信じているだけじゃ足りない。体の芯から、震えるほどに信じ切らなければ、誓は応えてくれない」
僕は目を閉じ、もう一度、あの夜の記憶をたどった。少女の悲鳴。獣の赤い目。九年前の母の姿。それらを一つずつ思い浮かべながら、手のひらに意識を集中させる。
わずかに、灰色の器が揺らいだ気がした。だが、それだけだった。銀の光は、姿を見せない。
「駄目です」
「焦るな。一朝一夕でできるようになるものなら、誰も苦労はしない」
シャナはそう言って慰めてくれたが、僕の中の焦りは膨らむ一方だった。
道場の隅では、フェリクが黙々と剣を振っていた。乾いた素振りの音が、規則正しく空気を裂く。僕への配慮からか、こちらを見ないようにしているのが分かる。だが、その気遣いすら、今の僕には少しだけ息苦しかった。
「フェリク、少し付き合え」
シャナがそう声をかけると、フェリクは剣を納めて歩み寄ってきた。
「稽古の相手か」
「ああ。ロナンの誓は、極限状態でこそ発動しやすい。多少痛い思いをしてもらうことになるが、構わないな」
「望むところだ」
フェリクは木剣を構え、僕と向き合った。その目には、これまでにない真剣さが宿っている。
「本気で来い。手加減はしない」
「ああ」
僕も木剣を構えたが、正直なところ、勝算はまるでなかった。剣の実力差は、この五日間で埋まるようなものではない。それでも、シャナの意図は分かっていた。追い詰められた状況を、あえて作り出そうとしているのだ。
木剣がぶつかる乾いた音が、道場に響いた。フェリクの一撃を受け止めるだけで、僕の腕は痺れるように震える。二合、三合と打ち合ううちに、息はすぐに上がった。頭の片隅で、シャナの言葉が繰り返される。誓は覚悟の力だ、命の危険を感じろ――それでも、目の前にいるのは長年の友人だ。本気で自分を傷つけようとしているわけではないと、体のどこかが分かってしまっている。
打ち合いは、あっという間に決着がついた。フェリクの木剣が、僕の腹を軽く突く。
「そこまで」
シャナの声で、フェリクがすぐに剣を引いた。僕は膝をついたまま、荒い息を整える。
「誓は、出なかったな」
「はい……」
「なぜだと思う」
シャナの問いに、僕はしばらく考えてから答えた。
「本当の意味で、命の危険を感じていないから、でしょうか」
「半分正解だ。だが、もう半分ある」
「もう半分」
「お前は今、フェリクを『敵』だと思って向き合っていない。だから、誓が反応しない」
その指摘は、僕の胸に鋭く刺さった。確かに、フェリクを傷つけたい、あるいは彼から誰かを守りたいという感覚は、僕の中になかった。ただ、指導された通りに剣を構えていただけだ。
「誓は覚悟の力だ。作り物の緊張じゃ、決して発動しない」
その日の稽古は、それで終わった。フェリクは僕に手を貸して立ち上がらせてくれたが、その顔には、何か言いたそうな複雑な表情が浮かんでいた。
「なあ、ロナン」
道場を出て、屋敷へ戻る道すがら、フェリクが口を開いた。
「お前の誓、羨ましいと思う自分がいる。俺には、そんな特別な力はない」
「フェリクには剣の才能があるだろう」
「才能と、誓は違う。誓は、お前自身の中から出てくるものだ。俺の剣は、努力の積み重ねに過ぎない」
その言葉には、これまで聞いたことのない響きがあった。金色の器を持ち、誰からも期待されているフェリクが、まさか僕の誓を羨むとは思ってもみなかった。
「そんな風に思ってたのか」
「言わなかっただけだ」
フェリクは前を向いたまま、それだけ答えた。夕暮れの光が、彼の横顔を赤く染めている。遠くで鳥が鳴き、屋敷の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。僕はその表情から、彼の本心を読み取ることができなかった。
「お前は、これからもっと強くなる。俺には分かる」
「根拠のないことを、また言うんだな」
「今度は、根拠がある。あの夜の光を、この目で見たからな」
その言葉には、いつもの気安さの中に、微かな緊張が滲んでいるように聞こえた。追い越されることへの不安なのか、それとも純粋な期待なのか、僕にはまだ判断がつかなかった。
二人の間に、これまでになかった何かが、静かに横たわり始めていた。それが何なのか、この時の僕には、まだはっきりと言葉にすることができなかった。




