影の剣士
「フェリク、悪いが少し外してくれるか」
シャナがそう言うと、フェリクは僕とシャナを交互に見た後、小さく頷いて部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、僕は寝台の上で身を起こし、シャナと向き合う体勢を取った。
窓の外では、夕暮れの光が赤く滲んでいた。昨日までと変わらない、いつもの景色のはずなのに、今はどこか違って見える。壁に立てかけられた僕の木剣が、その赤い光を鈍く反射していた。
「体の具合は」
「重いです。まるで、全身の力を使い果たしたみたいに」
「だろうな」
シャナは椅子を引き寄せて腰を下ろすと、しばらく僕の顔を見つめた。いつもの飄々とした調子が鳴りを潜め、代わりに、何かを見定めようとするような視線だった。
「単刀直入に聞く。あの光が現れる直前、お前は何を考えていた」
僕は言葉に詰まった。あの瞬間の記憶は、はっきりとしているようで、どこか曖昧でもあった。
「……分かりません。ただ、目の前で少女が殺されそうになっていて。それを、見過ごせないと」
「もう少し詳しく」
シャナの声には、有無を言わせない響きがあった。僕は観念して、自分の中にあったものを、できる限り言葉にしてみた。
「二度と、目の前で誰も見捨てたくない。そう、思ったんです。強く」
その言葉を口にした瞬間、シャナの目つきが変わった。
「やはりな」
「やはり、とは」
「ロナン。お前が起こしたのは、この世界にただ一つだけある、器の大きさを覆す現象だ。私たちはそれを『誓』と呼んでいる」
誓。初めて聞く言葉だった。
「誓は、自分自身に課した約束を守り続けている間だけ、生まれ持った器の大きさを超える力を発揮できる仕組みだ。お前の場合は、『二度と目の前で誰も見捨てない』――それが、お前の誓というわけだ」
「約束を、守り続けている間だけ……」
「そうだ。だが、誓は誰にでも見つけられるものじゃない。適当に決めた約束では、力は宿らない。本人の過去や、譲れない信念に根差したものでなければ、発動すらしない」
シャナの言葉が、静かに僕の中に染み込んでいく。九年間、僕が抱え続けてきた後悔。あの日、母を守れなかったという想い。それが、僕の誓の正体だというのなら。
嬉しいのか、それとも怖いのか、自分でもよく分からなかった。ずっと誰にも話せずにいた傷が、こんな形で力に変わるなんて、考えたこともなかった。それは救いのようでもあり、同時に、あの記憶から逃れられない証のようにも思えた。
「シャナ殿は、なぜそんなに詳しいんですか」
僕が尋ねると、シャナは一瞬だけ目を伏せた。それから、どこか遠くを見るような顔で答えた。
「私にも、かつて誓があったからだ」
「シャナ殿にも」
「ああ。もう随分と昔の話だがな」
シャナは自分の左手を、僕に見せるようにかざした。よく見ると、手のひらにうっすらとした古い傷跡が残っている。
「私の誓は、もうとうに終わっている。今は、ただの年老いた剣士だ。だが、誓を持つ者を導いたことは、一度や二度ではない」
「終わっている、というのは」
誓は、破れば力を失う。私の場合は……まあ、それはいずれ話す機会もあるだろう」
シャナはそう言って、話を切り上げるように軽く咳払いをした。その一瞬だけ、彼女の視線が窓の外、遠く西の空へと向けられたのを、僕は見逃さなかった。何を見ているのか、あるいは何を思い出しているのか、僕には知る由もない。詳しく聞きたい気持ちはあったが、その拒絶にも似た間合いに、僕はそれ以上踏み込めなかった。
「大事なのは、これからのお前だ。ロナン、お前の誓は非常に強い力を持っている。灰色の器が、あそこまではっきりと銀色に輝くのは、私も久しく見ていない」
「でも、僕は自分でも何が起きたのか、まるで分からないまま暴走しかけました」
「当然だ。誓は、力を出す方法を教えてくれるわけじゃない。ただ、器を超えた力の『器』を用意するだけだ。その中身をどう扱うかは、本人の技量次第になる」
シャナの説明は、これまでの僕の常識を覆していくものだった。器の色は生まれつき決まっていて、後から変わることはない――そう、皆が信じている。だが、誓という現象は、その常識の外側にある、いわば例外だ。
「今のお前は、剣も満足に振れないのに、いきなり大剣を持たされたようなものだ。振り回せば、自分自身も傷つける」
「だから、暴走した」
「そうだ。だから、これから鍛える必要がある。剣術だけじゃない、誓の力を制御する術をだ」
「シャナ殿が、教えてくれるんですか」
「他に、教えられる者もいないだろうな」
シャナは肩をすくめてそう言った。飄々とした、いつもの調子が少しだけ戻ってきていた。
「一つ、覚えておけ。誓は諸刃の剣だ。お前を過去に縛り付けたまま終わらせるか、それとも過去を力に変えて前に進むための道具にするか――それは、お前次第だ」
その言葉の重みを、僕はまだ十分に理解できていなかった。それでも、シャナの目の奥にある真剣さだけは、はっきりと伝わってきた。
「よろしくお願いします」
僕がそう頭を下げると、シャナは満足そうに頷いた。
「明日からだ。今日はゆっくり休め。誓を使った後の消耗は、思っているよりずっと深い」
シャナが部屋を出ていった後、僕は一人、天井を見上げながら、手のひらに視線を落とした。灰色に戻ったそこに、確かにあの銀色の輝きが眠っている。
誓。二度と、目の前で誰も見捨てない。
その言葉を、僕はもう一度、静かに胸の中で繰り返した。
扉の外から、フェリクの気配が近づいてくるのが分かった。ノックの音がして、彼が顔を覗かせる。
「シャナ殿は、何の話をしていったんだ」
僕は少し迷ってから、正直に答えることにした。
「僕にも、まだよく分からないことだ。ただ、これから、変わっていけるかもしれない」
フェリクは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。その代わり、寝台の脇の椅子に座り直すと、いつもの調子で笑った。
「まあ、いい。とにかく、お前が無事でよかった」
「心配、かけたな」
「当たり前だ。丸一日も目を覚まさないんだぞ。俺がどれだけ――」
そこまで言いかけて、フェリクは気恥ずかしそうに言葉を切った。
「いや、何でもない。とにかく、ゆっくり休め」
その素直な言葉に、僕は少しだけ、救われた気がした。窓の外はすっかり暗くなっていたが、胸の奥にはまだ、あの銀色の光の余韻が、微かに灯っているような気がした。




