灰色に灯る銀
二度と、目の前で誰も見捨てない。
それは、言葉になる前から、ずっと僕の中にあったものだった。九年間、誰にも打ち明けられずに抱え続けてきた想い。母を守れなかった、あの日からずっと。
牙が迫る、その刹那。
その想いが、初めてはっきりとした言葉になって、僕の内側で弾けた。
体の奥、これまで意識したこともない場所で、何かが弾け飛んだ感覚があった。焼けるような熱さと、凍りつくような冷たさが、同時に全身を駆け抜ける。時間の流れが、急に間延びしたように感じられた。獣の牙が、ゆっくりと、それでいて確実に近づいてくる。
視界が、白く染まった。
いや、白ではない。銀色だ。
自分の両腕――目の前に掲げた、その手のひらから、見たこともない銀の光が溢れ出していた。まるで、長い間閉じ込められていた何かが、堰を切ったように溢れ出しているようだった。眩いほどの光が、獣の牙を弾き返す。
獣は甲高い悲鳴を上げて後方に吹き飛び、地面を転がった。周囲にいた人々が、驚愕の声を上げるのが聞こえた。
僕自身、何が起きたのか分からなかった。
手のひらを見つめる。そこには、確かに銀色の光が灯っていた。灰色だったはずの器が、今は淡い銀の輝きを放っている。心臓が早鐘を打ち、体の奥から、これまで感じたことのない熱が湧き上がってくるのが分かった。
――これが、僕の。
考える暇もなく、獣が体勢を立て直し、再び唸り声を上げながらこちらに向き直った。傷を負ったことで、その禍々しい紋様が一層激しく明滅している。
「うわあああっ!」
僕は叫びながら、獣に向かって手を突き出した。何をどうすればいいのか、分からないままに。それでも、体は勝手に動いた。手のひらから再び銀の光が迸り、獣を吹き飛ばす。
だが、その反動は思っていたよりもずっと大きかった。
全身から力が抜けていくような感覚。まるで、自分の中の何かを根こそぎ持っていかれたようだった。膝が崩れ、僕はその場に倒れ込みそうになった。
「ロナン様!」
誰かの声が遠くに聞こえる。視界が揺らぎ、辺りの音が水の中にいるように歪んで聞こえた。獣はまだ完全に倒れていない。よろめきながら立ち上がり、こちらを睨みつけている。
もう一度、力を使わなければ。
そう思うのに、体が言うことを聞かなかった。銀の光は、まだ手のひらに灯ってはいる。だが、それを操る術も、次にどうすればいいのかも、僕には分からなかった。まるで、初めて手にした剣を、使い方も知らないまま振り回しているようなものだった。
獣が跳んだ。
僕はその場に立ち尽くすことしかできなかった。逃げる力すら、もう残っていなかった。
「――そこまでだ」
鋭い声とともに、目の前に人影が割り込んだ。剣が一閃し、獣の首を正確に切り裂く。獣は短い断末魔とともに、地面に崩れ落ちた。
「フェリク」
かすれた声で、僕はその名を呼んだ。街道の警備から駆けつけたのだろう、フェリクの息は上がっていた。彼は倒れかけの僕を支えながら、獣の死骸と、僕の手のひらとを、交互に見比べていた。
「お前……今の光は、何だ」
「分からない。僕にも、分からないんだ」
本当に、分からなかった。銀色の光は、既に手のひらから薄れ始めている。代わりに、耐え難いほどの倦怠感が全身を包んでいた。まるで、丸一日休みなく走り続けた後のような疲労感だった。
「とにかく、動くな。無理に立とうとするな」
フェリクの声には、いつもの実力主義な冷たさはなかった。ただ純粋な心配だけが滲んでいる。
周囲では、他の兵士たちが残った獣の群れとの戦いを続けていた。断続的な怒号と剣戟の音が響く中、少女とその母親が、少し離れた場所からこちらを見つめているのに気づいた。母親は僕に向かって、何度も頭を下げていた。何か言おうとしているようだったが、声にならないようだった。
役に立てたのだ、と実感するよりも先に、意識が急速に薄れていくのを感じた。
「おい、ロナン! 気をしっかり持て!」
フェリクの声が、だんだん遠くなっていく。
最後に見えたのは、駆け寄ってくる父の姿だった。いつも感情を見せない父の顔に、僕は初めて、はっきりとした動揺の色を見た気がした。それが僕を案じてのものなのか、朦朧とする頭では、うまく判断がつかなかった。
それを最後に、僕の意識は闇に沈んだ。
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目を覚ましたのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。窓の外はもう明るい。カーテンの隙間から差し込む光が、埃っぽい空気の中に筋を作っていた。
体を起こそうとして、僕は全身にのしかかる重い倦怠感に顔をしかめた。まるで、骨の髄まで疲れきっているような感覚だった。左腕には、丁寧に包帯が巻かれている。
「気がついたか」
椅子に座って腕を組んでいたフェリクが、僕の様子に気づいて身を乗り出した。
「フェリク……ここは」
「お前の部屋だ。丸一日以上、目を覚まさなかった」
「一日……」
僕は自分の手のひらを見つめた。そこにはもう、あの銀の光はない。いつも通りの、曇った灰色があるだけだった。まるで、あの出来事全てが夢だったかのように。
「怪我をした少女は」
「無事だ。母親と一緒に、村に戻った。何度もお前に礼を言いたいと言っていたが、意識がなかったからな」
フェリクはそこで言葉を切り、少し躊躇うような間を置いてから、続けた。
「なあ、ロナン。あの光は、一体何だったんだ。器の色が、変わったように見えた」
僕は答えられなかった。何を、どう説明すればいいのか分からない。灰色だったはずの器が、あの瞬間だけ銀色に輝いた。理屈では説明のつかないことだった。
「正直に言うと、僕自身、何が起きたのか未だに整理がついていないんだ」
「そうか……」
フェリクは何か言いたげな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。その代わり、扉の外に向かって声をかけた。
「シャナ殿、起きたようです」
戸口から、白髪交じりの髪を揺らしながら、シャナが姿を見せた。その表情はいつもの飄々としたものではなく、どこか探るような、真剣な色を帯びていた。
「ロナン。少し、話がある」
その声の重さに、僕は反射的に身構えた。




