立てなかった夜
門に駆けつけると、松明の明かりの中に、血の匂いが混じっているのが分かった。
「開けろ、早く!」
見張りの兵が叫び、門番が慌てて閂を外す。開いた門の向こうから、仲間に肩を貸された兵士が、よろめきながら中に入ってきた。鎧の一部が裂け、腕からは血が滴っている。
「森の……森の連中が、街道を越えてきました。数はさらに増えています。統率された動き――ただの獣ではありません」
兵士は途切れ途切れにそう報告すると、力尽きたように膝をついた。近くにいた家臣がすぐに肩を支え、治療のために引きずっていく。血の跡が、石畳の上に点々と残った。
広場の奥では、剣を手にした家臣たちが慌ただしく隊列を組み直している。誰かが叫び、誰かが応じ、松明の炎が影を大きく揺らす。その騒がしさの中に、僕はどうしようもない場違いさを感じていた。皆が武器を手に、それぞれの持ち場へと動いていく中で、僕だけが丸腰で立ち尽くしている。
「魔物、なのか」
僕は思わず口にしていた。誰に問うでもなく、ただ確かめたかった。答えたのは、駆けつけてきた父だった。
「詳細はまだ分からん。だが、様子見をしている余裕はなさそうだ」
父の声は相変わらず落ち着いていたが、その目には、これまで見たことのない緊張が滲んでいた。夜風が吹き抜け、篝火の炎が大きく揺れる。焦げた木と、鉄と、そしてかすかな血の匂いが入り混じった、嫌な夜だった。
「ロナン、お前は予定通り、避難民の誘導に回ってくれ。西の門から、村の者たちが来ている」
「分かりました」
僕は頷き、走り出した。屋敷の廊下を抜け、西の広場へと向かう。近づくにつれ、人々のざわめきがはっきりと聞こえてきた。子供の泣き声、誰かを呼ぶ声、荷物を引きずる音。避難してきた村人たちが、次々と広場に詰めかけていた。
「こちらへ! 落ち着いて、順番に!」
僕は声を張り上げ、人の波を誘導する。灯りは十分でなく、あちこちで人がぶつかり合い、転びかける者もいた。
「若様、こっちで合ってますか」
腰の曲がった老人が、荷物を背負ったまま僕に尋ねてきた。
「ええ、そのまま真っ直ぐ。屋敷の広間で炊き出しの準備をしています」
「そりゃあ、ありがたい」
老人は僕に頭を下げると、よたよたと歩き出した。その背を見送る間もなく、今度は幼い子供の手を引いた母親が、不安げな顔でこちらを見上げてくる。
「あの、うちの人がまだ畑の方に……」
「後から続く方々のために、こちらでも見張りを置いています。まずはご自身とお子さんが先に」
僕がそう言うと、母親は唇を噛みながらも頷き、子供の手を引いて歩き出した。安心させる言葉と、本当のことの境目は、自分でもよく分からなかった。それでも、今ここで彼女を落ち着かせることが、何よりも先だった。
老人に肩を貸し、子供の手を引く母親の背を押し、僕は必死に動き続けた。頭で考える余裕はなかった。ただ、目の前のことをこなすしかない。
それでも、動きながら、僕の心のどこかは冷静だった。これは僕にできる仕事だ。剣も魔法も要らない。ただ人を導き、落ち着かせる。それだけのことなら、灰色の器でも十分にできる。
――本当に、それだけでいいのだろうか。
ふとよぎった問いを、僕はすぐに振り払った。今はそんなことを考えている場合ではない。
広場の混雑が一段落しかけた、その時だった。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がったのは、広場の端、まだ避難しきれていない一角だった。目を向けると、母親らしき女性が地面に倒れ込み、その傍らで幼い少女が立ち尽くしていた。少女の視線の先には、闇の中からぬらりと現れた、黒い獣のような影があった。
大きさは大型の狼ほど。だが、その体には見慣れない禍々しい紋様が浮かび、赤く光る目が、まっすぐに少女を捉えていた。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。しかし、少女は恐怖で足がすくんでいるのか、その場から一歩も動けずにいた。周囲の大人たちは、皆それぞれ手が離せない状況にあった。荷物を抱え、他の子供を庇い、あるいは自分自身が動くことに精一杯で、誰も少女に手を伸ばせずにいる。
僕は、気づけば走り出していた。
考えてから動いたのではない。体が、勝手に少女の方へと向かっていた。距離はまだ十数歩。獣の影は、既に飛びかかる姿勢に入っている。
間に合うだろうか。剣も持たない僕が駆けつけたところで、何ができる。せいぜい、囮になるくらいのものだ。それでも、足を止める理由にはならなかった。
いや、間に合わせるしかない。
九年前の記憶が、頭の奥で弾けた。母の背中。刃物を構えた盗賊。何もできずに立ち尽くしていた、あの日の自分。
今度こそ。
僕は少女に向かって手を伸ばし、その体を突き飛ばすようにして自分の方へ引き寄せた。同時に、獣の爪が空を切る音が、耳のすぐ側で響いた。
熱い。
左腕に走った痛みで、僕はようやく自分が獣の攻撃を受けたことを理解した。少女は無事だ。母親のもとへ這うようにして逃げていくのが、視界の端に見えた。
だが、獣はまだそこにいた。血の匂いに興奮したのか、赤い目がぎらりと僕を映す。低い唸り声が、腹の底に響くように伝わってきた。周囲の悲鳴が、やけに遠くに聞こえる。
僕の手には、何もない。剣も、杖も、持ってきていなかった。ただの誘導係として来ただけなのだから、当然だ。
灰色の器を持つ、ただの跡継ぎ。魔法も使えず、まともに剣も抜けない。それが今、この獣と向き合っている。
――また、何もできずに終わるのか。
膝が震えた。逃げろ、と頭のどこかが叫んでいる。だが、足はその場から動かなかった。動けば、背後にいる少女と母親が、代わりに狙われる。
獣が、地を蹴った。
僕は咄嗟に両腕を交差させ、身を守る姿勢を取った。それ以外に、できることは何もなかった。
せめて、この身一つで時間を稼げれば。
牙が迫る、その刹那。
僕の中で、何かが弾けた。




