領地を襲う影
屋敷に駆け戻ると、広間には既に家臣たちが集まっていた。地図を広げた机を囲み、誰もが険しい顔をしている。父の姿はその中心にあった。
「父上」
僕が声をかけると、父はちらりとこちらを見て、それから地図に視線を戻した。
「ちょうどいい。お前たちにも聞いておいてほしい」
父はそう言うと、地図の一点を指で示した。国境沿いの森――昨日話に出たあの場所だ。
「見張りの兵から報告があった。森の奥で、下生えが広く踏み均された跡がいくつも見つかったそうだ。何かがそこに集まり、しばらく留まっていたらしい。規模からして、十数といったところか」
「盗賊、ですか」
フェリクが尋ねると、家臣の一人が首を振った。
「それが……足跡は下草に埋もれ、ぬかるんでもいて、人のものか獣のものかまでは判別できなかったと。ただ、動きだけは妙に整然としていたそうです」
「ただの野盗にしては、統率が取れすぎている、ということか」
父がそう確認すると、家臣は頷いた。
「はい。かといって、獣の群れがあれほど揃って動くとも思えません」
家臣はそこで言葉を濁した。父が小さく頷く。
「魔物という線も捨てきれん、ということだな」
広間の空気が、一段と重くなった。魔物の群れとなれば、話は盗賊とは別次元になる。数十年前、この辺境地方では魔物の大規模な侵入があったと聞く。それ以来、大きな被害は出ていないはずだったが。
「防衛の手はずは」
「街道沿いの見張りを増やし、屋敷の警備も厚くする。近隣の村にも避難の準備をさせておく」
父の声は淡々としていたが、その内容の重さに、僕は思わず息を呑んだ。避難の準備が必要になるほどの脅威が、すぐそこまで迫っているということだ。
「俺にできることは」
フェリクが一歩前に出て、そう申し出た。父は少し考えるように間を置いてから答えた。
「お前は騎士見習いとしての務めを果たしてもらう。実戦経験のある者たちの下について、街道の警備に加わってくれ」
「分かりました」
フェリクの声には、緊張と同時に、どこか高揚したものが滲んでいた。初めて任される実戦めいた役目に、彼なりの使命感を感じているのだろう。それは、彼の器の色にふさわしい役割だった。
僕は、そこで何も言われなかった。
当然のことだ。灰色の器しか持たない僕に、警備の一端を任せるという発想自体、誰の頭にも浮かばない。剣の稽古は積んでいても、実戦で通用するかどうかは全くの別問題だ。それに、跡継ぎである僕を危険な場に出すわけにもいかない、という判断もあるのだろう。
理屈では分かっている。それでも、フェリクだけが役目を与えられ、僕には何も求められないという事実が、静かに胸を締め付けた。
「ロナン」
父が僕の名を呼んだ。
「お前は屋敷に残り、避難してくる領民の受け入れを手伝ってくれ。書類仕事や、割り振りの調整だ」
「分かりました」
僕は素直に頷いた。不満を言うつもりはなかった。それが今の僕にできる、精一杯の役目なのだから。それでも、頷きながら握った拳には、自分でも気づかないうちに力がこもっていた。
会議が終わり、家臣たちが散っていく中、僕は一人、広間の隅に立ち尽くしていた。窓の外はもう暗くなっている。国境の森は、屋敷からは見えない場所にあるはずなのに、なぜかその方角ばかりが気になった。
「ロナン」
振り返ると、フェリクが立っていた。もう装備を整えているのか、腰には剣を下げている。
「お前は屋敷に残るんだな」
「ああ」
「無理に前に出ようとするなよ。今のお前じゃ、足手まといになる」
その言葉に、悪意はなかった。事実を、そのまま口にしただけだ。だからこそ、余計に反論のしようがなかった。
「分かってる」
「……悪い、そういう意味じゃ」
「分かってるって言ってるだろう」
僕は少し強い口調でそう返してしまい、フェリクが一瞬、傷ついたような顔をした。すぐに後悔したが、言った言葉は取り消せない。
「悪い。今のは、八つ当たりだ」
「いや……お前の気持ちも、分かるつもりだ」
フェリクはそう言うと、それ以上は何も言わずに、警備隊が集まる方向へと歩いていった。その背中を見送りながら、僕は自分の情けなさに打ちのめされていた。
友人に当たり散らして、それで何かが変わるわけでもないのに。
屋敷の窓から見える空には、もう星が瞬き始めていた。国境の森で、今何が起きているのか、僕には知る術もない。
避難してくる領民の受け入れ準備のため、僕は執務室に向かった。書類仕事と割り振りの調整――地味で、目立たない役目だ。それでも、誰かがやらなければならない仕事ではある。自分にそう言い聞かせながら、僕は机に向かった。
ペンを走らせながら、頭の片隅では、ずっと考えていた。もし本当に魔物が現れたら。もし、また誰かが目の前で傷つくようなことがあったら。
そのとき僕は、また何もできずに立ち尽くすだけなのだろうか。
九年前と同じように。
夜が更けるにつれ、屋敷の外の物音が、少しずつ慌ただしさを増していくのが分かった。避難の準備を進める領民たちの声、指示を飛ばす家臣たちの足音。僕は執務室にこもったまま、その音に耳を澄ませながら、ただ手元の書類を片付け続けた。
何もできない。それでも、何かをしていなければ、押し潰されそうだった。
深夜、ようやく一区切りついた頃、屋敷の外で誰かが叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかまでは、聞き取れなかった。ただ、その声の切迫した響きだけが、はっきりと耳に残った。
僕は席を立ち、窓の外に目を向けた。屋敷の門の方角に、松明の明かりが揺れながら集まってくるのが見えた。
何かが、始まろうとしていた。




