一歩だけの真実
キアンは、命に別状はなかった。
足の傷は深かったが、急所は外れていた。医師の見立てでは、しばらく歩けないものの、後遺症は残らないだろうとのことだった。天幕の中は消毒液の匂いが漂い、包帯を巻かれたキアンの足が、痛々しく白く浮かび上がっていた。宿営の寝台で目を覚ましたキアンは、僕とフェリクの顔を見るなり、力なく笑った。
「情けないところ、見せちまいましたね」
「馬鹿を言うな。お前が生きてるだけで、十分すぎる」
フェリクがそう言うと、キアンは照れくさそうに視線を逸らした。
「ロナン殿が、来てくれなかったら」
「間に合った。それだけのことだ」
僕がそう返すと、キアンは何かを言いかけて、結局、小さく頷くだけに留めた。その目に浮かんだ感謝の色を、僕は黙って受け取った。
「早く治して、また一緒に立たないとな」
フェリクがそう言って、キアンの頭を軽く小突いた。キアンは涙ぐみながらも、精一杯の笑顔で頷いた。
*
キアンの容態を見届けた後、僕とフェリクは、シャナの天幕へ向かった。
「シャナ殿」
呼びかけると、シャナは剣の手入れの手を止め、こちらを見た。僕らの表情から、何かを察したのだろう。彼女の顔が、わずかに強張った。
「使徒に、また会ったな」
「はい」
僕は、今日あったことを、一つも省かずに伝えた。キアンが襲われたこと。使徒が現れ、母の名を口にしたこと。九年前のあの森について、何かを知っていること。そして――シャナへの伝言。
「『彼女なら、きっと分かるはずだ』と、そう言っていました」
言い終えると、天幕の中に、長い沈黙が落ちた。シャナは、手にしていた剣を、静かに膝の上に置いた。
*
「……もう、逃げられないみたいだな」
やがて、シャナがそう呟いた。その声は、これまで聞いたことのないほど、静かで、そして疲れていた。
「シャナ殿」
僕がもう一度呼びかけると、シャナは目を閉じ、大きく息を吐いた。長い迷いの果てに、何かを吹っ切ったような仕草だった。
「全部は、まだ話せない。私自身、確信を持てていないことが多すぎる」
シャナはそう前置きしてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「だが、一つだけは言える。私は、九年前――お前の母、モイラを知っていた」
その一言に、僕は言葉を失った。フェリクが、隣で息を呑む音がした。
「詳しくは、話さない。今はまだ、話す資格が私にあるとは思えない。それでも、これだけは分かってほしい。私があの日から今日まで、誓を捨てて生きてきたのは――守れなかった、ある約束のためだ」
シャナの声は震えていたが、その目は、まっすぐに僕を見据えていた。初めて、彼女が仕草ではなく、言葉でその重さを差し出してくれた瞬間だった。
「その約束の相手が、母なんですか」
「……いずれ、話す。今はまだ、それだけしか言えない」
それ以上、僕は問い詰めなかった。シャナの目に浮かんでいたのは、拒絶ではなく、まだ整理のつかない痛みだったからだ。長年、一人で抱え続けてきたものの重さが、その一言だけでも、確かに伝わってきた。
「シャナ殿」
フェリクが、静かに口を開いた。
「ロナンは、必ずその答えに辿り着きます。俺が、隣で支えますから」
シャナは、フェリクの顔をしばらく見つめてから、小さく笑った。
「……頼もしくなったものだな、二人とも」
*
天幕を出ると、夜の空に、星が瞬いていた。フェリクが、隣で大きく息を吐いた。
「一歩、進んだな」
「ああ」
「まだ、何も終わっちゃいない。だが、少なくとも、シャナ殿は言葉で答えてくれた。それだけで、違う」
フェリクの言う通りだった。母の血筋、シャナの過去、核の正体。何一つ、まだ明らかにはなっていない。それでも、確かに一歩、真実に近づいた実感があった。
「フェリク」
「なんだ」
「これから、核そのものに向き合うことになる。お前も、一緒に来てくれるか」
フェリクは、僕の顔をしばらく見つめてから、力強く頷いた。
「当たり前だ。対等な相棒だろう、俺たちは」
星空の下、僕らはしばらくの間、並んで立っていた。吐く息が白く尾を引いて、夜空に溶けていく。灰色の器から始まった僕の旅は、まだ何一つ終わっていない。母の血筋も、シャナの過去も、核の正体も、すべてはまだ闇の中だ。
それでも、隣に並び立つ者がいる。器の色で測られていた頃には、決して手に入らなかったものだ。それだけで、この先の道を、恐れずに歩いていける気がした。
灰色の意地は、まだ捨てるつもりはない。今はただ、その先にある答えを、確かめに行くだけだ。




