使徒の言葉
「見事なものだ」
使徒が、ゆっくりと歩み寄ってきた。朝靄の中、その足取りは音もなく、まるで雪を踏んでいないかのようだった。フェリクがキアンを庇うように前へ出て、剣を構え直す。
「近づくな」
「警戒しなくていい。今日も、殺しに来たわけじゃない」
「なら、何のために、キアンを狙った」
僕は怒りを抑えながら、そう問うた。使徒は、少し首を傾げるような仕草を見せた。
「狙った、というのは正しくないな。ただ、お前がどう動くかを、見てみたかっただけだ」
「試した、というのか。仲間の命を使って」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
その曖昧な答えに、怒りが頂点に達しそうになった。それでも、僕は剣を握る手に力を込め、感情を抑え込んだ。ここで我を忘れれば、相手の思う壺だ。息を整えながら、僕は改めて剣を構え直した。
「なら、次は何のためだ。まだ、何か試すつもりか」
「試す、というよりは――確かめたい、というべきかもしれない」
使徒の口調に、初めて迷うような響きが混じった。
*
使徒は、僕の方へ視線を戻した。仮面の奥から、確かにこちらを見つめているのが分かる。
「今日の動き、悪くなかった。誓の力と、鍛えた技量。その両方を、迷いなく使えるようになっている」
「褒めているつもりか」
「ただの事実だ」
使徒は一歩、間合いを詰めた。フェリクが息を呑む音が聞こえた。
「お前の母親も、同じように迷いのない目をしていた」
その一言に、時間が止まったような感覚がした。
「今、なんて」
「モイラ、といったか。あの血筋の者は、いつも同じ目をする。何かを守ると決めた者の目だ」
「お前は、母を知っているのか」
僕は思わず、間合いを詰めていた。使徒は、それでも動じなかった。
「知っている、というより……関わりがあった、というべきか。九年前のあの夜、あの森で」
九年前。あの森。心臓が、激しく脈打った。母が命を落とした、あの襲撃と、目の前のこの存在が、繋がっているというのか。
「詳しく話せ!」
僕は思わず、剣を握り直して踏み出そうとした。だが、体が動かなかった。使徒から放たれる気配が、これまでとは違う重さで、僕の足を縫い止めているようだった。
「まだ、その時ではない」
使徒はそう言うと、一歩、後ろへ下がった。
「お前が、その血に流れるものの意味を、本当に受け止められるようになった時――また会いに来よう」
「待て、逃げるのか」
フェリクが叫んだが、使徒は答えなかった。
「シャナにも、よろしく伝えてくれ。……彼女なら、きっと分かるはずだ」
その名前が使徒の口から出た瞬間、フェリクが息を呑む音が聞こえた。僕自身、頭の中が真っ白になりかけていた。使徒は、シャナのことも知っている。母のことも、シャナのことも。すべてが、一つの根で繋がっている。
その一言を残し、使徒の姿は、朝靄の中に溶けるように消えていった。追おうにも、足が動かなかった。
*
しばらくの間、誰も動けなかった。雪の上に、キアンの血と、斬り伏せた魔物の残骸だけが残っている。
「今のは、一体」
フェリクが、震える声で呟いた。僕は答えられなかった。母の名前。九年前のあの森。シャナへの伝言。バラバラだった手がかりの断片が、頭の中で渦を巻いている。それでも、まだ何一つ、形にはならなかった。
「キアンを、早く手当てしないと」
我に返ったように、フェリクがキアンを抱え直した。僕もその肩を支え、宿営への道を急いだ。
歩きながら、僕は自分の手のひらを見つめた。銀の光は、もう消えていた。だが、その代わりに、これまでにない重さが、確かに胸の奥に根を下ろしていた。
母は、何を知っていたのだろう。そして、シャナは――一体、何を隠しているのだろう。使徒は、二人を繋ぐ線の存在を、はっきりと匂わせた。それなのに、肝心の中身は何一つ渡してくれなかった。
「シャナ殿に、全部話そう」
隣を歩くフェリクが、静かにそう言った。
「今度こそ、逃がさない」
その声には、これまでにない強さがあった。答えは、まだどこにもなかった。それでも、もう後戻りはできない。僕は、宿営の方角へ、まっすぐ足を進めた。




