窮地
翌朝、キアンはいつも通りの足取りで、水汲みに出かけていった。
「行ってきます」
その声は、普段と何一つ変わらなかった。だからこそ、誰も引き止めなかった。水場は宿営から目と鼻の先、木柵のすぐ外にある、見慣れた場所だ。何百回と繰り返されてきた、ただの日課だった。
僕とフェリクは、朝の鍛錬のために訓練場へ向かっていた。冷え切った空気に、吐く息が白く尾を引く。木剣を構え、いつものように型をなぞり始めて間もなく、木柵の方角から、悲鳴にも似た叫び声が響いた。
「キアンの声だ」
フェリクの顔から、血の気が引いた。二人同時に、木剣を放り出して駆け出す。
*
水場に着いた時、キアンは雪の上に倒れ込んでいた。彼を取り囲むように、統率された魔物が数体、じりじりと間合いを詰めている。傷ついた足を庇いながら、キアンは必死に槍を構えていたが、明らかに劣勢だった。倒れた水桶から零れた水が、赤く滲んだ雪に染み込んでいく。
「な、なんで、こんな場所に」
キアンの声は、震えていた。水場は、これまで一度も襲撃を受けたことのない、安全な場所だったはずだ。
「キアン!」
フェリクが叫び、真っ先に飛び出した。僕も剣を抜き、後を追う。
一体の魔物がキアンに飛びかかる寸前、フェリクが割って入り、剣で弾き返した。だが、残る魔物たちはひるまず、じりじりと包囲を狭めてくる。
「囲まれてる、数が多い!」
「引くな、キアンを死なせるわけにはいかない!」
僕は誓の力を引き出しながら、剣を振るった。一体を斬り伏せ、返す刀でもう一体の攻撃を弾く。息が上がり、腕の感覚が鈍り始めていた。それでも、倒しても倒しても、新手が茂みの奥から湧いて出てくる。まるで、誰かが意図的に、この場所へ差し向けているかのようだった。
「まさか」
嫌な予感が、背筋を駆け上がった。
その予感を裏付けるように、木々の合間から、灰色の布を纏った人影が、ゆっくりと歩み出てきた。
*
「――使徒」
フェリクが、絞り出すようにその名を呼んだ。
「随分と、賑やかな朝だな」
平坦な声が、緊迫した空気の中に、不釣り合いなほど静かに響いた。使徒は、戦況を静観するように、少し離れた場所に立っている。
「お前が、仕組んだのか」
僕は剣を構えたまま、そう問うた。
「仕組む、というほどのことでもない。ただ、少し背中を押しただけだ」
その平然とした答えに、怒りがこみ上げた。だが、今は問い詰めている場合ではない。キアンの足に、深い傷が刻まれていた。魔物の爪によるものだろう。血が、雪を赤く染めている。意識はあるが、立ち上がる力はもう残っていないようだった。
「キアン、しっかりしろ!」
フェリクがキアンを庇いながら叫んだ。だが、囲みはまだ解けていない。魔物の一体が、大きく口を開けてキアンに迫った。
間に合わない――そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
僕は誓の光を全開にし、地を蹴った。鍛え直した足運びが、限界を超えた速さを生む。魔物とキアンの間に、間一髪で滑り込む。剣を横に薙ぎ、迫る顎を弾き返した。
「キアンを引きずってでも、後ろへ下げろ!」
フェリクに叫びながら、僕は残りの魔物へ向き直った。誓の力と、積み重ねた剣の型。その両方が、今、初めて完全に噛み合っていた。一体を斬り伏せ、返す刀でもう一体の脚を払う。息が上がり、視界の端が霞み始めても、足は止まらなかった。
最後の一体を斬り捨てた瞬間、膝から力が抜けそうになった。肺が焼けるように痛み、剣を握る腕が痺れている。それでも、僕はキアンの方を振り返った。
フェリクが、キアンを抱えて後方へ下がっている。荒い息をつきながらも、キアンの目には、まだ確かな光があった。生きている。それだけで、十分だった。
「キアン、聞こえるか」
「……はい、なんとか」
か細いながらも、はっきりとした返事だった。フェリクが、大きく息を吐き出した。
だが、安堵する間もなく、僕は視線を上げた。使徒は、まだそこに立ったままだった。戦いの結末を、まるで観劇でもするかのように見届けている。その仮面の奥にある感情を、僕は読み取ることができなかった。




