静かな影
黒い結晶は、その日のうちに本営へ送られた。
数日後に届いた返答は、拍子抜けするほど短いものだった。「現時点では正体不明、王都の識者に確認中」。それだけだった。謎はまた一つ、答えの出ないまま積み上がっていく。
それでも、東の宿営には、以前よりも張り詰めた空気が漂っていた。誰も口には出さないが、使徒という存在の実在が、じわじわと部隊全体に重くのしかかっているのが分かった。夜番の兵たちの数は、以前より明らかに増えている。焚き火を囲む顔にも、笑い声は少なかった。
数日は、平穏に過ぎた。哨戒も小規模なものに留められ、大きな衝突は起きなかった。それでも、その静けさそのものが、かえって不気味だった。あの日、使徒が去り際に残した「いずれ、また会うことになるだろう」という言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
シャナは、あれから僕らとほとんど言葉を交わさなくなった。天幕に籠もり、何かを考え込んでいる時間が増えている。声をかけても、上の空で頷くだけのことが多かった。心配だったが、彼女なりに何かと向き合っているのだろうと思い、僕はあえて踏み込まずにいた。
*
任務のない夕方、僕はフェリクと連れ立って、宿営の外れを歩いていた。夕焼けが、雪原を薄紅色に染めている。木柵の向こうに広がる森は、この時間になると輪郭が滲み、闇にゆっくりと呑まれていくように見えた。
「なあ、ロナン」
フェリクが、珍しく改まった声で切り出した。
「あの日――部下を守れなかった夜から、ずっと考えていたことがある」
「聞かせてくれ」
「俺には、お前みたいな誓はない。金色の器を持って生まれただけで、特別な信念があったわけじゃない」
フェリクは、夕日に染まる自分の手のひらを見つめた。
「それでも、あの日からずっと思ってるんだ。二度と、俺の下についた奴を死なせない、と。これは、誓ってほどのものじゃないかもしれない。だが、俺なりの――譲れない何かだ」
その言葉には、以前の彼らしい迷いのなさとは違う、静かな重みがあった。金色の器という才覚だけで前へ進んできた男が、今は自分自身の意志で、進む理由を選び取ろうとしている。
「それは、立派な誓だと思う」
「誓、か」
フェリクは、その言葉を繰り返しながら、小さく笑った。
「お前のそれとは、きっと質が違う。銀色に光るわけでもない、ただの意地みたいなもんだ」
「意地でも、十分だと思う。僕の誓だって、最初はただの後悔でしかなかった」
僕がそう言うと、フェリクは少し驚いたような顔をした。それから、ふっと表情を緩めた。
「柄でもないことを言ったな。忘れてくれ」
「忘れない」
「おい」
フェリクは苦笑いを浮かべたが、その目には、確かな光が宿っていた。
*
宿営に戻ると、斥候の一人が慌ただしく報告に走っているのが見えた。フェリクが声をかけると、斥候は硬い顔で足を止めた。
「西の哨戒路で、また消息を絶った小隊が。使徒らしき影を見た、という証言もあります」
「また、か」
フェリクの表情が、一瞬で引き締まった。
「使徒は、狙いを変えたのかもしれない。ただの哨戒部隊じゃなく、もっと組織立った襲撃を仕掛けてくる可能性がある」
その夜、宿営全体に緊張が走った。見張りがさらに増やされ、誰もが武具を手放さずに眠る夜が続いた。かがり火の数も倍に増やされたが、それでも森の闇は、いつもより深く、重く見えた。
「キアン、明日の水汲みは俺が代わろうか」
夕食の場で、フェリクがそう申し出た。だが、キアンは首を振った。
「大丈夫です、いつもの水場ですから。それに、俺だってちゃんと役に立ちたいんです」
キアンの声は、いつも通り明るかった。それでも、僕はその会話を、なぜか妙に心に留めていた。
「無理はするなよ」
フェリクがそう釘を刺すと、キアンは白い歯を見せて笑った。
「フェリク様こそ、心配しすぎです。俺、これでも半年鍛えたんですよ」
その屈託のないやり取りに、僕とフェリクは思わず顔を見合わせて笑った。張り詰めた空気の中で、その一瞬だけは、確かに和やかだった。
見張りの火が、静かに宿営を照らしている。この静けさの奥に、何が潜んでいるのか。誰も、まだ知らなかった。




