灯る違和感
宿営に戻ると、僕らはまず指揮官への報告を済ませた。使徒との遭遇、その圧倒的な力、そして意味不明な発言。聞いた将校たちの顔は一様に強張り、詳しい記録を取ると言って、僕らを解放した。誰もが、目の前の脅威にどう対処すべきか分からず、言葉少なだった。
その足で、僕とフェリクはシャナのもとへ向かった。夜の宿営は静まり返っていたが、あちこちの天幕から漏れる灯りが、まだ多くの者が眠れずにいることを物語っていた。
*
シャナは、宿営の隅に張られた小さな天幕の中にいた。焚き火の前に座り込み、剣の手入れをしていたその手が、僕らの姿を見るなり止まった。
「顔色が悪いな。何があった」
「使徒に、会いました」
その一言を口にした瞬間、シャナの表情が変わった。手入れの布を握ったまま、彼女はしばらく、微動だにしなかった。
「……詳しく、話せ」
僕は覚えている限りの言葉を、そのまま伝えた。灰色の布、仮面、平坦な声。杖の一振りで兵を弾き飛ばす力。そして、あの一言。
「『その色。それに、その顔立ち。懐かしいものを見た気がする』――そう言われました」
言い終えると同時に、シャナの手から、剣の手入れ布が滑り落ちた。
拾おうともせず、シャナはただ、地面の一点を見つめていた。焚き火の炎に照らされたその顔から、いつもの飄々とした余裕が、完全に消えていた。指先が、小さく震えているのが見えた。
「シャナ殿?」
「……なんでもない」
声が、わずかに震えていた。これまで、彼女がこれほど動揺した姿を、僕は見たことがなかった。あの、母の血筋について尋ねた夜でさえ、彼女はここまで取り乱してはいなかった。
「なんでもない、わけがないでしょう」
フェリクが、思わずというように口を挟んだ。
「あなたは、何かを知っている。ずっと、そうだった」
シャナは、答えなかった。ただ、視線を上げ、窓のない天幕の中で、それでも遠く西の方角を見るように、目を細めた。いつもの仕草だった。だが、その奥にあるものの重さが、これまでとは明らかに違っていた。
*
「教えてください」
僕は、思い切って踏み込んだ。
「もう、子供扱いはやめてください。僕は、あなたが思っているより、ずっと多くを背負う覚悟があります」
シャナは、ゆっくりと僕の顔を見た。長い沈黙の後、彼女は静かに口を開いた。
「……お前の想像している以上に、根の深い話だ。今この場で全部を話せば、お前は今夜のうちに前線を離れ、答え合わせのために別のものを探しに行こうとするだろう。それは、今のお前には早すぎる」
「シャナ殿」
「もう少しだけ、待て。私自身、まだ確信を持てていないこともある」
その言い方には、以前のような突き放す強さはなかった。むしろ、何かに耐えているような、苦しげな響きがあった。
「一つだけ、言っておく」
シャナは、僕とフェリクを交互に見た。
「あれは、闇雲に殺すために動いているわけではないはずだ。何かを探している。あるいは、選んでいる。今日、お前たちが見逃されたのも、そのせいだろう」
「何を、探しているんですか」
「それが分かれば、苦労はしない」
「シャナ殿は、あの気配に心当たりがあるんですね」
僕がそう問い詰めると、シャナは初めて、視線を逸らした。答えを避けたのではなく、答えられなかったのだと、その仕草だけで分かった。
「……悪いが、今夜はここまでにしてくれ」
シャナはそう言うと、剣を鞘に収めた。話はここまでだ、という合図だった。焚き火の炎に照らされたその横顔は、いつになく老いて見えた。
*
天幕を出ると、夜の冷気が肌を刺した。フェリクが、隣で小さく息を吐いた。
「シャナ殿があそこまで動揺するのを見たのは、初めてだ」
「ああ」
「核も、使徒も、単なる敵じゃない。何か、目的がある。それも、お前に関係する何かだ」
フェリクの言葉に、僕は頷くしかなかった。母の血筋、シャナの過去、核の正体。三つの点が、確かに一本の線で繋がろうとしている。それでも、その線の先に何があるのか、まだ何も見えなかった。
「今の僕らにできることは」
「土台を固めることだ。お前が言われた通り、な」
フェリクはそう言うと、拳を握りしめた。
「それに――このまま黙って報告を待つだけってのも、性に合わない。俺たちで、次の一手を作ろう」
その声には、以前の彼らしい、まっすぐな強さが戻っていた。
「次の一手、というと」
「正式な討伐任務だ。核の配下を叩く。使徒本人と正面からやり合うのは、まだ無謀だろう。だが、その配下になら、今の俺たちでも通用するはずだ」
フェリクの目には、すでに次の一歩を見据える光が宿っていた。あの敗北から学んだ「覚悟だけでは足りない、技量が要る」という教訓を、今度こそ形にする機会だと、彼なりに感じているのだろう。
「隊長に、掛け合ってみる。お前も、一緒に来てくれるか」
「もちろんです」
灯りの消えた宿営の空の下、僕らはしばらくの間、並んで立ち尽くしていた。答えの見えない謎を抱えたまま、それでも前へ進むしかない。それだけは、はっきりしていた。




