使徒、現る
三日後、僕らは再び哨戒に出た。
今度の任務は、前回よりも規模が大きかった。国境の森の奥、討伐隊が壊滅した現場に近い一帯を確認するようにと、本営から指示が下りてきたのだ。フェリクを含む十名ほどの部隊に、僕とキアンも加わっていた。
「あの日、俺たちが逃げた道を、逆に辿ることになるとはな」
フェリクが、森の奥を見据えながら呟いた。その声に、隠しきれない緊張が滲んでいる。キアンも、いつもの軽口を忘れたように黙り込んでいた。
雪はやんでいたが、空は重く垂れ込め、森の中は昼間だというのに薄暗かった。木々の間を吹き抜ける風が、時折、不自然なほどの静けさを運んでくる。踏みしめる雪の下から、時折、焼け焦げた木の枝や、砕けた武具の欠片が覗いた。討伐隊が壊滅した爪痕が、まだそこかしこに残っている。
進むほどに、隊列の足取りが重くなっていくのが分かった。誰も口には出さないが、この先に何があるのか、皆がどこかで覚悟を決めようとしていた。
「静かすぎる」
先頭を歩く斥候が、低く呟いた。その言葉が終わるかどうかというところで、前方の茂みが、ざわりと揺れた。
*
現れたのは、統率された魔物の群れ――ではなかった。
木々の合間から、ゆっくりと歩み出てきたのは、人の形をしたものだった。全身を灰色の布で覆い、顔には仮面のような布が巻かれている。性別も、年齢も、外見からは何一つ判別できなかった。手には、装飾のない黒い杖を携えている。
「……あれが」
フェリクが息を呑んだ。部隊全体に、緊張が走る。誰も彼も、剣や槍を構えたまま、動けずにいた。
「随分と、懐かしい顔ぶれが来たようだ」
その者は、感情の乗らない、平坦な声でそう言った。慈悲でも、侮蔑でもない。まるで天気の話でもするような口調だった。
「お前が、使徒か」
フェリクが、声を絞り出すようにそう問うた。
「そう呼ばれることも、あるだろうか」
はぐらかすような答え方だった。だが、否定はしなかった。
「何が、目的だ」
「目的、か。難しい問いだな」
使徒は、まるで散歩の途中で声をかけられたかのように、ゆっくりと首を傾げた。その仕草には、殺意も敵意も感じられない。だからこそ、余計に不気味だった。
その視線が、ゆっくりと部隊の中を巡り、やがて僕の上で止まった。仮面の奥から、確かにこちらを見つめているのが分かった。
「――ほう」
短く漏れた声に、初めて、わずかな感情らしきものが滲んだ。
「その色。それに、その顔立ち。懐かしいものを見た気がする」
心臓が、大きく跳ねた。何を見られているのか、僕自身にも分からない。それでも、ただの偶然の一言だとは、どうしても思えなかった。
「何のことだ」
「いや、こちらの話だ。気にしないでくれ」
「答えろ」
僕は思わず、声を張り上げていた。使徒は、それに応えるでもなく、ただ静かにこちらを見つめ続けている。仮面の向こうに、確かな感情があるのかどうかすら、窺い知れなかった。
使徒はそう言うと、一歩、こちらへ踏み出した。フェリクが咄嗟に前へ出て、僕を庇うように剣を構える。
「近づくな!」
「そう、警戒しなくてもいい。今日は、お前たちを害するつもりはない」
その言葉とは裏腹に、空気そのものが、重く張り詰めていた。僕は手のひらに意識を集中させ、誓を引き出す準備をした。銀の光が、静かに灯る。
「ほう、それが、お前の誓か」
使徒の口調に、初めてわずかな興味が滲んだ。
「悪くない。だが、まだ足りない。あまりに、足りない」
その一言と共に、使徒が杖を軽く一振りした。目に見えない力の波が、大気を震わせる。近くにいた兵が二人、まとめて弾き飛ばされ、雪の上に転がった。
「な……!」
僕は咄嗟に誓の力を全開にし、剣を構えて飛び出した。雪を蹴り、全力で間合いを詰める。だが、たどり着いた場所には、すでに何もなかった。まるで最初から、そこに立っていなかったかのように。振り返ると、使徒はいつの間にか、数歩離れた場所に立っていた。踏み込みの速さでは、まるで及んでいない。
「今日のところは、これくらいにしておこう」
「待て!」
フェリクが叫んだが、使徒はそれに応えなかった。
「その色を持つ者が、まだこの世に残っていたとはな。……いずれ、また会うことになるだろう」
そう言い残すと、使徒の姿は、森の闇の中へ溶けるように消えていった。深追いする間もなかった。
*
森を出て、宿営へと戻る道すがら、誰も口を利かなかった。弾き飛ばされた兵二人は幸い、軽傷で済んでいたが、その顔には拭いきれない恐怖が張り付いていた。
「今のは、一体」
キアンが、震える声で呟いた。槍を握る手が、まだ小刻みに震えている。
「分からない。だが、これがコルムの言っていた、あれか」
フェリクの声も、いつになく硬かった。彼は倒れた兵二人の様子を確かめながら、忌々しげに拳を握りしめた。
「本気になったら、俺たちなど瞬きの間だったはずだ。それなのに、遊ぶように見逃していきやがった」
その言葉に、誰も反論できなかった。実力の差を、これほど明確に突きつけられたのは初めてだった。
僕は自分の手のひらを見つめた。銀の光は、まだ僅かに残っている。「その色」「懐かしい顔立ち」――使徒の言葉が、耳の奥に張り付いて離れなかった。
母の血筋。シャナの過去。核の正体。何一つ明らかになっていない謎の断片が、今、確かに繋がろうとしている気配がした。
「いずれ、また会うことになるだろう」――その一言は、脅しにも、予言にも聞こえた。あの場で使徒が本気を出していたら、僕らのうち何人が無事でいられただろうか。考えるだけで、背筋が冷えた。
「シャナ殿に、報告しないと」
僕がそう言うと、フェリクが頷いた。
「ああ。あの人なら、何か知っているかもしれない」
灰色の空の下、僕らは宿営への道を急いだ。今日見たものの意味を、まだ誰も、言葉にできないままだった。




