失った日のこと
夕餉の前、父の書斎に呼ばれた僕を待っていたのは、思ったより短い話だった。
「国境沿いの警備を増やす。しばらく、街道の見回りに人手を割くことになるだろう」
父はそれだけを告げると、僕の顔をちらりと見て、それ以上は何も言わなかった。器見の儀の結果について、何か言いかけたようにも見えたが、結局は口を噤んだ。触れるつもりはないらしい。それはいつものことだった。
「森の影の件ですか」
「噂の域は出ていない。だが、念のためだ」
父の声は落ち着いていたが、その落ち着きこそが、事態を軽んじていない証だと僕は知っていた。国境沿いの森。かつて、あの森の近くで――僕は思考を止めた。止めなければ、今夜はまた眠れなくなる。
「下がっていい」
父の言葉に一礼して書斎を出た僕は、自分の部屋に戻る前に、無意識に足を止めていた。廊下の窓から見える庭は、もう暗くなり始めている。その暗さが、ある記憶を呼び覚ますのに十分だった。
僕がまだ六つだったころの話だ。
あの日も、こんなふうに日が暮れかけていた。母――モイラと二人で、街道沿いの村に住む乳母を見舞いに出かけた帰り道だった。父は所用で王都に出ており、護衛の数もいつもより少なかった。
「もう少しで着くわ、ロナン」
母はそう言って、僕の手を握ってくれていた。母の手は、いつも僕の手より少し冷たくて、それでいて不思議と安心する温度だった。
森の入り口に差し掛かったとき、それは起きた。
木々の合間から、複数の人影が現れた。盗賊だった。数は五、六人。護衛は三人しかいなかった。悲鳴と怒号が入り混じり、馬が嘶いた。僕は何が起きているのかを理解する前に、母に強く抱き寄せられていた。
「ロナン、動かないで」
母の声は、震えていなかった。少なくとも、僕にはそう聞こえた。今思えば、それは僕を怖がらせないための、精一杯の演技だったのかもしれない。
護衛たちが応戦する中、一人の盗賊が母と僕のほうへ近づいてきた。刃物を手にしていた。母は僕を背に庇い、震える声で何かを叫んだ。助けを求めていたのだと思う。あるいは、僕を逃がそうとしていたのかもしれない。
僕は、動けなかった。
恐怖のせいだけではなかったと思う。あのとき僕の中には、何か特別な力なんて欠片もなかった。器の色は、その頃から灰色だった。魔法も使えず、剣も握ったことがなく、六つの子供にできることなど、何一つなかった。
それでも――今でも思う。あの瞬間、僕に何か一つでもできることがあれば。母を助けられる何かが、この手にあったなら。
結局、護衛の一人が駆けつけて盗賊を退けた。母は深く傷を負っていた。僕を庇った、その一撃のせいだった。
屋敷に運ばれた母は、三日後に息を引き取った。
僕はその間、ずっと母の傍にいた。何もできない自分を呪いながら、ただ手を握ることしかできなかった。母は最後まで、僕を責めなかった。それどころか、痛みに顔を歪めながらも、僕の名前を呼んで、笑おうとしていた。
「ロナン。あなたは、大丈夫」
それが、母の最後の言葉だった。
大丈夫なわけがなかった。僕は何もできなかった。ただ守られただけだった。それなのに、母は僕を安心させるように、そう言って逝った。
あれから九年が経つ。
僕はこのことを、誰にも話していない。父は当時のことをほとんど語らないし、僕からも聞かなかった。フェリクにも、話したことはない。話せば同情されるだろうし、同情されたところで、母は戻ってこない。それに――
それに、僕自身、この記憶をどう扱えばいいのか、今でも分かっていなかった。ただの悲しい思い出として、心の奥にしまい込むには、あまりに重すぎる。かといって、誰かに打ち明けて軽くなるようなものでもない気がしていた。
窓の外はすっかり暗くなっていた。僕は自分の手のひらを見つめた。あの日、何もできなかった手。今も灰色の器しか持たない手。
もし、あのとき僕に力があったら。
考えても仕方のないことだと分かっている。それでも、この問いは九年経った今でも、僕の中で消えることなく燻り続けていた。
「ロナン様、夕餉の支度が」
使用人の声に、僕は我に返った。
「ああ、今行く」
部屋に戻る前に、僕はもう一度だけ、暗くなった庭を見つめた。国境沿いの森――母を失った、あの森からそう遠くない場所だ。同じ「森」という言葉が、記憶の底にあるものを容赦なく揺さぶっていた。
もし、また同じようなことが起きたら。
そのとき僕は、今度こそ、何かできるのだろうか。
答えは出ないまま、僕は夕餉の席へと向かった。灰色の手を、いつものように握りしめて。




