前線に立つ者たち
前線基地は、想像していたよりもずっと猥雑で、そしてずっと生々しかった。
木柵で囲われた広い敷地の中に、無数の天幕が張られている。焚かれたかがり火の煙が、灰色の空へと絶え間なく立ち上っていた。あちこちから、金属を打つ音、怒鳴り声、馬のいななきが響いてくる。地面はぬかるみと雪解け水で泥にまみれ、踏みしめるたびに、重い水音がした。鼻を突く鉄と煙と汗の匂いが、これまで嗅いだことのない種類の緊張感を運んでくる。
遠くの木柵の一角が、大きく壊れたまま応急の板で塞がれているのが見えた。何が、あるいは何頭が、そこを突き破ったのか。想像するだけで、背筋が冷えた。
木柵の外側には、簡素な天幕がいくつも並び、そこに横たえられた負傷者たちの呻き声が、絶え間なく漏れ聞こえていた。医療の手が、明らかに足りていない。血に染まった包帯を運ぶ従軍医の顔にも、疲労の色が濃く滲んでいる。
「思ったより、酷いな」
シャナが低く呟いた。僕は言葉を返せなかった。カルン領で見た負傷者たちの光景を、さらに何倍にも広げたような有様だった。
天幕の間を進む途中、若い兵が一人、荷を運びながらよろめいて転んだ。僕は思わず駆け寄り、荷を支えようと手を伸ばした。
「大丈夫か」
「……いや、いい。お前は」
兵は僕の顔と、腰の剣を一瞥すると、怪訝そうな顔をした。見覚えのない、見るからに戦場慣れしていない少年。それだけで、彼の中で判断がついたのだろう。
「悪いが、手を出すな。素人に触られる方が困る」
そう言い残し、兵はよろめきながらも一人で荷を担ぎ直し、去っていった。差し出した手が、行き場を失ったまま宙に浮いた。屋敷で感じていたのと同じ疎外感が、そのまま形を変えてここにもあった。
*
木柵の門では、疲れきった顔の門番兵が、次々と訪れる者たちの対応に追われていた。
「何用だ」
「カルン男爵家より参った。ロナンという。討伐隊の状況を確認したい」
「男爵家の坊ちゃんが、こんな所に何の用だ。今は誰も彼も手一杯だ、後にしろ」
取り付く島もない態度だった。予想はしていたが、いざそう言われると、拳に力がこもる。
「私はシャナだ。取り次いでもらえるか」
シャナがそう名乗った瞬間、門番兵の表情が、わずかに変わった。
「……もしや、あの『灰狼のシャナ』殿か」
「昔の話だ」
シャナは面倒くさそうに、それだけ答えた。門番兵は慌てた様子で敬礼すると、すぐに別の兵を呼びに走らせた。
「シャナ殿、灰狼とは」
「古い二つ名だ。忘れろ」
それ以上、何も語る気はないらしい。僕はそれ以上聞くのをやめたが、胸の奥に小さな引っかかりが残った。シャナの過去は、僕がまだ知らないところで、確かに大きな影を落としているらしかった。
取り次がれた先の若い伝令兵は、シャナの名を聞くなり、目に見えて態度を変えた。
「灰狼のシャナ殿がいらっしゃるとは……こちらへ。指揮天幕までご案内します」
道すがら、伝令兵はちらちらと僕の方を窺っていた。連れの少年が何者なのか、測りかねているようだった。誰も、僕自身を見てはいない。見ているのは、隣にいるシャナの影だけだ。分かっていたことだが、改めて突きつけられると、胸の奥が小さく軋んだ。
*
案内された指揮天幕は、怒号にも似た報告の応酬で満ちていた。地図を囲む将校たちは誰もが眠っていないような顔をしており、命令と反論が絶え間なく飛び交っている。指揮系統そのものが、限界に近いところで軋んでいるのが、一目で分かった。
僕はその隅で、フェリクの消息を尋ねようとしたが、誰も彼もが忙しく、まともに取り合ってもらえなかった。
「すみません、フェリクという騎士見習いの、」
「知らん。名簿は本部だ、そっちで聞け」
にべもなく返され、僕は言われた通り天幕の奥へ向かった。そこにいた別の将校らしき男を捕まえて、もう一度同じ問いを口にする。
「フェリクの消息を」
「今それどころじゃない、見て分からんか」
男は地図から顔も上げずにそう吐き捨てると、部下に向かって次の指示を怒鳴りつけた。僕はまた別の天幕を探し、また別の誰かを捕まえては、同じ問いを繰り返した。灰色の器しか持たない、見知らぬ少年の言葉に、耳を傾けてくれる者はいなかった。屋敷にいた頃と、何も変わらない。ここでもまた、僕は誰でもない誰かだった。
――それでも。
苛立ちを飲み込みながら、僕は思い直した。以前の僕なら、ここで諦めて、隅で立ち尽くしていただろう。今は違う。何度断られても、次の相手を探す。それだけの粘り強さが、今の僕にはあった。
ようやく、名簿を管理する初老の文官を捕まえた。疲れた目でこちらを一瞥すると、彼は面倒くさそうに帳面をめくった。
「フェリクという名は……ああ、これか。討伐隊先遣、生存確認済み。東の宿営に配属されている」
「生きて、いるんですね」
「帳面の上ではな。実際に見たわけじゃない」
「あの……先の遭遇戦について、他に何か分かっていることは」
「言葉を話す何かに、統率の取れた魔物の群れをけしかけられた。それしか分からん。生き残った者たちも、まともに話せる状態じゃない者が多くてな」
文官はそう言うと、疲れた様子で帳面を閉じた。それ以上は、聞き出せそうになかった。素っ気ない答えだったが、それでも、僕の中で何かが、ようやく緩んだ気がした。フェリクは、生きている。今はまだ、それだけで十分だった。
*
指揮天幕を出ると、外はもう夕暮れに近づいていた。橙色の光が、泥と雪の入り混じった地面を、ぼんやりと照らしている。
「東の宿営、か」
シャナがそう呟いて、僕を見た。
「行くか」
「はい」
答えながら、僕は自分の手のひらを見つめた。ここに来て、誰かに認められたわけではない。器頼みでない実力を、まだ何一つ示せてもいない。それでも、屋敷でただ待っているだけだった頃の自分とは、確かに何かが違っていた。
一歩を踏み出したこと。それ自体に、意味があるはずだった。
いつか、シャナの影を借りずとも、自分の名前だけで誰かに取り合ってもらえる日が来るだろうか。分からない。分からないが、少なくとも今は、その問いを抱えたまま前に進むことができる。それだけで、以前の自分とは違う場所に立てている気がした。
僕は泥を踏みしめながら、東の宿営へと続く道を歩き出した。かがり火の煙の向こうに、いくつもの天幕の影が、夕闇の中で揺れていた。あの中のどこかに、フェリクがいる。




