↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能の器と嗤われた少年は、誓いだけを胸に立ち上がる  作者: 冬城 透真


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/42

領地の外

馬上から見る景色は、思っていたよりずっと広かった。


カルン男爵領を囲む丘を越えると、そこから先はもう、僕の知らない土地だった。地図の上でしか見たことのない街道が、雪原の中を一本の線となって延びている。行けども行けども、似たような雑木林と、白く覆われた畑が続くだけだ。それでも、その代わり映えのしない景色の一つひとつが、僕にとっては初めて目にするものだった。


「そんなに珍しいか」


隣を歩ませるシャナが、面白がるようにそう言った。


「珍しい、というより……実感が湧かないんです。ここが、屋敷から見えていた景色の続きだということが」


「誰でも最初はそうだ。世界は、思っているより広い」


シャナはそう言うと、手綱を軽く引いて馬の速度を落とした。


「街道沿いに、いくつか村がある。今日中に一つは通ることになるだろう」


馬を進めるうちに、日が高くなった。冷たい風が頬を刺し、吐く息が絶え間なく白く尾を引いていく。尻や腿の筋肉が、慣れない長時間の騎乗に悲鳴を上げていた。それでも、その痛みすら、今の僕には新鮮だった。屋敷の中で剣を振っているだけでは、決して感じることのなかった種類の疲労だ。


道の脇には、時折、王都へ向かう荷馬車とすれ違った。急いた様子で馬を急がせる御者、幌の隙間から見える不安げな顔。誰も彼も、何かから逃げるように、東を目指していた。


*


昼を過ぎた頃、最初の村が見えてきた。


近づくにつれ、僕は違和感を覚えた。畑には人影がなく、家々の煙突からも、煙が一筋も上がっていない。村の入り口に立てられた木柵の一部が、何かに引き倒されたように傾いていた。


「シャナ殿、これは」


「避難したんだろう。この辺りまで、報せが届いていたということだ」


村の中を通り抜けると、閉ざされたままの戸口が、いくつも並んでいた。一軒だけ、扉が開け放たれたままの家があった。中を覗くと、食器や衣類が、慌てて出て行ったことを物語るように散らかっている。テーブルの上には、食べかけのまま固まったスープの器が残されていた。玄関先には、誰かの子供のものらしい木彫りの人形が、雪に半分埋もれたまま転がっていた。拾い上げるかどうか、僕は一瞬迷い、結局そのままにした。持ち主が戻ってくる時のために、あるべき場所に残しておくべきだと思った。


「……逃げる暇は、あったんですね」


「ああ。だが、それだけの余裕しかなかった、ということでもある」


シャナの声は、いつもより低かった。僕は無言のまま、その家の前を通り過ぎた。カルン領でも似たような光景を見てきたはずなのに、自分の生まれ育った場所を離れた分だけ、その光景はより生々しく、僕の中に重くのしかかってきた。


村を出てしばらく行くと、街道の脇に、荷車を引いた一家とすれ違った。老人と、母親らしき女性、幼い子供が二人。皆、疲れ切った顔をしていた。


「どちらまで」


シャナが声をかけると、母親らしき女性が、警戒するような目でこちらを見た。それでも、シャナの帯びた剣と、旅装の質から、ただの通りすがりではないと悟ったのだろう。


「王都の方まで。もう、こっちにはいられません」


「森の連中か」


「はい……夜になると、遠くから、獣とも人ともつかない声が聞こえるって、皆が言っています。もう、我慢の限界です」


女性はそう言うと、幼い子供の手を強く握り直した。子供たちは、僕らを不思議そうに見つめていた。


「気をつけて」


シャナがそれだけ言うと、一家は頭を下げかけた。その時、幼い子供の一人が、僕の腰にある剣を、じっと見つめているのに気づいた。怖がっているのか、それとも縋るような目だったのか、判断がつかなかった。僕は馬から下り、片膝をついて目線を合わせた。


「怖い思いをしたな。もう、大丈夫だ」


気休めにしかならないと分かっていながら、そう言わずにはいられなかった。子供は小さく頷くと、母親の手にしがみつくようにして歩き出した。一家は街道の向こうへと去っていった。その背中を見送りながら、僕は拳を握りしめていた。


「獣とも人ともつかない声、か」


使徒(しと)の話とも、符合するな」


シャナは短くそう言うと、再び馬を進めた。


*


夜、街道沿いの小さな宿場で、僕らは足を止めた。宿の一階には、避難する人々や、街道を行き来する商人、そして何人かの負傷した兵らしき男たちが、押し黙ったまま暖を取っていた。誰もが疲れた顔をしていて、笑い声一つ聞こえない。暖炉の火が、部屋の中に赤い影を揺らしている。窓の外は、もう完全な闇に沈んでいた。


「シャナ殿。この脅威は、カルン領だけの話ではないんですね」


「王都からの使者が言っていただろう。隣り合う二つの領地でも、同じような報告が上がっている、と」


「では、アルバ王国全体が」


「そこまでは分からん。だが、少なくとも、一つの領地だけの問題ではなくなってきている」


暖炉の薪が爆ぜる音がした。僕は手のひらを開き、そこに灯る淡い銀の光を見つめた。


「フェリクは、こんな中に取り残されているんですね」


「案じても仕方がない、と言いたいところだが」


シャナは珍しく、言葉を濁した。


「今度ばかりは、私も同じ気持ちだ」


その一言に、僕は少しだけ、肩の力が抜けた気がした。一人で抱えていた不安を、誰かと分け合えたような、そんな感覚だった。


「明日には、前線の基地に着く」


「はい」


「覚悟はいいか」


「分かりません。それでも、進むしかないと思っています」


「分からないままでいい。分かった顔をして前線に立つ者ほど、案外もろい」


シャナはそう言うと、懐から小さな地図を取り出し、火明かりに照らして広げた。指先が、街道の先にある一点をなぞる。


「ここが、前線基地だ。国境の森を背にして、砦を中心に陣を張っている。討伐隊の本隊も、そこに詰めているはずだ」


「フェリクも」


「まだ生きていれば、な」


その言い方は素っ気なかったが、僕にはそれが、シャナなりの気遣いだと分かった。無責任な気休めより、まだ何も分からないという事実を、そのまま渡してくれている。


シャナは、それ以上何も言わなかった。地図を畳み、懐にしまい込むと、ただ小さく頷いただけだった。


窓の外で、風が強く鳴った。この先に何が待っているのか、僕にはまだ何も分からない。それでも、屋敷にいた頃の自分とは、確かに何かが違っていた。分からないことを、分からないまま抱えて進む。それができるようになっただけでも、この旅には意味があるはずだった。


宿の片隅で、負傷した兵の一人が、うわ言のように何かを呟いていた。聞き取れたのは「あの目」という一言だけだった。何の目のことなのか、尋ねる勇気は出なかった。


僕は火のそばに横たわり、目を閉じた。明日は、これまでとは違う景色が待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。