領地の外
馬上から見る景色は、思っていたよりずっと広かった。
カルン男爵領を囲む丘を越えると、そこから先はもう、僕の知らない土地だった。地図の上でしか見たことのない街道が、雪原の中を一本の線となって延びている。行けども行けども、似たような雑木林と、白く覆われた畑が続くだけだ。それでも、その代わり映えのしない景色の一つひとつが、僕にとっては初めて目にするものだった。
「そんなに珍しいか」
隣を歩ませるシャナが、面白がるようにそう言った。
「珍しい、というより……実感が湧かないんです。ここが、屋敷から見えていた景色の続きだということが」
「誰でも最初はそうだ。世界は、思っているより広い」
シャナはそう言うと、手綱を軽く引いて馬の速度を落とした。
「街道沿いに、いくつか村がある。今日中に一つは通ることになるだろう」
馬を進めるうちに、日が高くなった。冷たい風が頬を刺し、吐く息が絶え間なく白く尾を引いていく。尻や腿の筋肉が、慣れない長時間の騎乗に悲鳴を上げていた。それでも、その痛みすら、今の僕には新鮮だった。屋敷の中で剣を振っているだけでは、決して感じることのなかった種類の疲労だ。
道の脇には、時折、王都へ向かう荷馬車とすれ違った。急いた様子で馬を急がせる御者、幌の隙間から見える不安げな顔。誰も彼も、何かから逃げるように、東を目指していた。
*
昼を過ぎた頃、最初の村が見えてきた。
近づくにつれ、僕は違和感を覚えた。畑には人影がなく、家々の煙突からも、煙が一筋も上がっていない。村の入り口に立てられた木柵の一部が、何かに引き倒されたように傾いていた。
「シャナ殿、これは」
「避難したんだろう。この辺りまで、報せが届いていたということだ」
村の中を通り抜けると、閉ざされたままの戸口が、いくつも並んでいた。一軒だけ、扉が開け放たれたままの家があった。中を覗くと、食器や衣類が、慌てて出て行ったことを物語るように散らかっている。テーブルの上には、食べかけのまま固まったスープの器が残されていた。玄関先には、誰かの子供のものらしい木彫りの人形が、雪に半分埋もれたまま転がっていた。拾い上げるかどうか、僕は一瞬迷い、結局そのままにした。持ち主が戻ってくる時のために、あるべき場所に残しておくべきだと思った。
「……逃げる暇は、あったんですね」
「ああ。だが、それだけの余裕しかなかった、ということでもある」
シャナの声は、いつもより低かった。僕は無言のまま、その家の前を通り過ぎた。カルン領でも似たような光景を見てきたはずなのに、自分の生まれ育った場所を離れた分だけ、その光景はより生々しく、僕の中に重くのしかかってきた。
村を出てしばらく行くと、街道の脇に、荷車を引いた一家とすれ違った。老人と、母親らしき女性、幼い子供が二人。皆、疲れ切った顔をしていた。
「どちらまで」
シャナが声をかけると、母親らしき女性が、警戒するような目でこちらを見た。それでも、シャナの帯びた剣と、旅装の質から、ただの通りすがりではないと悟ったのだろう。
「王都の方まで。もう、こっちにはいられません」
「森の連中か」
「はい……夜になると、遠くから、獣とも人ともつかない声が聞こえるって、皆が言っています。もう、我慢の限界です」
女性はそう言うと、幼い子供の手を強く握り直した。子供たちは、僕らを不思議そうに見つめていた。
「気をつけて」
シャナがそれだけ言うと、一家は頭を下げかけた。その時、幼い子供の一人が、僕の腰にある剣を、じっと見つめているのに気づいた。怖がっているのか、それとも縋るような目だったのか、判断がつかなかった。僕は馬から下り、片膝をついて目線を合わせた。
「怖い思いをしたな。もう、大丈夫だ」
気休めにしかならないと分かっていながら、そう言わずにはいられなかった。子供は小さく頷くと、母親の手にしがみつくようにして歩き出した。一家は街道の向こうへと去っていった。その背中を見送りながら、僕は拳を握りしめていた。
「獣とも人ともつかない声、か」
「使徒の話とも、符合するな」
シャナは短くそう言うと、再び馬を進めた。
*
夜、街道沿いの小さな宿場で、僕らは足を止めた。宿の一階には、避難する人々や、街道を行き来する商人、そして何人かの負傷した兵らしき男たちが、押し黙ったまま暖を取っていた。誰もが疲れた顔をしていて、笑い声一つ聞こえない。暖炉の火が、部屋の中に赤い影を揺らしている。窓の外は、もう完全な闇に沈んでいた。
「シャナ殿。この脅威は、カルン領だけの話ではないんですね」
「王都からの使者が言っていただろう。隣り合う二つの領地でも、同じような報告が上がっている、と」
「では、アルバ王国全体が」
「そこまでは分からん。だが、少なくとも、一つの領地だけの問題ではなくなってきている」
暖炉の薪が爆ぜる音がした。僕は手のひらを開き、そこに灯る淡い銀の光を見つめた。
「フェリクは、こんな中に取り残されているんですね」
「案じても仕方がない、と言いたいところだが」
シャナは珍しく、言葉を濁した。
「今度ばかりは、私も同じ気持ちだ」
その一言に、僕は少しだけ、肩の力が抜けた気がした。一人で抱えていた不安を、誰かと分け合えたような、そんな感覚だった。
「明日には、前線の基地に着く」
「はい」
「覚悟はいいか」
「分かりません。それでも、進むしかないと思っています」
「分からないままでいい。分かった顔をして前線に立つ者ほど、案外もろい」
シャナはそう言うと、懐から小さな地図を取り出し、火明かりに照らして広げた。指先が、街道の先にある一点をなぞる。
「ここが、前線基地だ。国境の森を背にして、砦を中心に陣を張っている。討伐隊の本隊も、そこに詰めているはずだ」
「フェリクも」
「まだ生きていれば、な」
その言い方は素っ気なかったが、僕にはそれが、シャナなりの気遣いだと分かった。無責任な気休めより、まだ何も分からないという事実を、そのまま渡してくれている。
シャナは、それ以上何も言わなかった。地図を畳み、懐にしまい込むと、ただ小さく頷いただけだった。
窓の外で、風が強く鳴った。この先に何が待っているのか、僕にはまだ何も分からない。それでも、屋敷にいた頃の自分とは、確かに何かが違っていた。分からないことを、分からないまま抱えて進む。それができるようになっただけでも、この旅には意味があるはずだった。
宿の片隅で、負傷した兵の一人が、うわ言のように何かを呟いていた。聞き取れたのは「あの目」という一言だけだった。何の目のことなのか、尋ねる勇気は出なかった。
僕は火のそばに横たわり、目を閉じた。明日は、これまでとは違う景色が待っている。




