初めて外へ
翌朝、雪はやんでいた。
差し込む朝日が、屋根に積もった雪を眩しく照らしている。廊下に漏れる冷気に、吐く息がかすかに白く曇った。昨夜のうちに固めておいた言葉を、僕はもう一度、頭の中でなぞった。うまく伝えられるだろうか。いや――伝わるかどうかより、まず口にしなければ、何も始まらない。父の書斎の扉の前に立つと、いつもより心臓が重く脈打っているのが分かった。
「父上。お話が」
「入れ」
短い返事だった。書斎に入ると、父は机の上に広げた地図から顔を上げないまま、こちらを一瞥した。窓の外の雪景色を映して、部屋の中はいつもより白く明るい。
「昨日の続きだな」
「はい」
僕は一度、深く息を吸った。
「僕を、前線へ行かせてください」
「駄目だ」
食い気味に返された。予想していた反応だった。それでも、その速さに、僕は一瞬、言葉に詰まった。
「理由を、聞かせてください」
「お前は跡継ぎだ。万が一のことがあれば、この領地はどうなる。それに」
父はそこで一度言葉を切り、地図の上に視線を落とした。
「お前の力が、本物の敵にどこまで通用するのか、まだ誰にも分からない」
「分かりません。ですが、確かめもせずに、ここで待っているだけでいいとは思えません」
「気持ちは分かる。だが、気持ちだけで動いていい局面ではない」
父の声は静かだったが、有無を言わせぬ重さがあった。以前の僕なら、ここで引き下がっていただろう。それでも今は、引き下がるわけにはいかなかった。
「昨夜、負傷した兵の手当てをしながら、僕は何も特別なことをしたわけではありません。ただ、以前の僕とは違う自分がいることだけは、確かに感じました」
僕はそこで、一度言葉を止めた。父がわずかに顔を上げる。
「父上は、フェリクが討伐隊に選ばれた時、彼の力を信じて送り出しました。今の僕を、まだ何もできない子供のままだと思っているなら、それは間違っています」
書斎に、沈黙が落ちた。窓の外で、雪が枝から滑り落ちる音がした。父はしばらくの間、何も言わなかった。ただ、その目に浮かんでいた強張りが、少しずつ和らいでいくのが分かった。
「……お前は、九年前とは違うんだな」
その一言に、僕は思わず息を呑んだ。九年前。母を失ったあの夜のことを、父が口にするのは、これが初めてだった。
「はい。もう、あの時のままではいたくありません」
父はしばらく僕を見つめた後、静かに目を伏せた。何かを堪えるような、それでいて、どこか納得したような表情だった。
「……好きにしろ。ただし、シャナを連れて行け。一人では行かせん」
「父上」
「これ以上は、聞かん。行くなら、備えを整えてから発て」
それだけを言うと、父は再び地図に視線を戻した。もう、話は終わりだという合図だった。それでも、その背中から伝わってくるものが、以前とは何かが違う気がした。
*
書斎を出ると、廊下の柱の陰に、シャナが立っていた。
「聞いていたんですか」
「聞こえてきただけだ、盗み聞きなどしていない」
悪びれもせず、シャナはそう答えた。
「行くんだろう、前線へ」
「はい」
「なら、私も行く。ドナル殿にもそう言われたようだしな」
「シャナ殿が、わざわざ」
「お前一人を行かせて、何かあってからでは遅い」
シャナはそう言ってから、ふと目を細めた。
「それに――昔、似たようなことがあった。誰かを一人で行かせて、それきりになったことがな」
「シャナ殿」
「詳しくは聞くな。今はまだ、話す気になれん」
いつもの飄々とした調子とは違う、静かな声だった。僕はそれ以上、踏み込まなかった。踏み込めば、彼女がまた窓の外――遠く西の空へ視線を逃がすことを、もう知っていたから。
「三日で発てるように、支度を整えろ。装備も、路銀も、私が手配しておく」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早い。前線は、道場よりよほど厳しい場所だ」
「分かっています。それでも、行かないという選択肢は、もう僕の中にありません」
シャナはそう言った僕の顔をしばらく見つめてから、ふっと小さく笑った。
「その顔だ。九年前から、随分と遠くまで来たものだな」
その一言の意味を、僕は問い返さなかった。ただ、確かにそうなのだろう、と静かに思った。
*
出立の日取りは、二日後に決まった。
その二日間、僕は自分の荷物を整えながら、これまでの十六年間、一度も領地の外に出たことがない自分に気づいた。器見の儀の日も、母を失った夜も、フェリクの出立を見送った日も、すべてこの屋敷と、この領地の中で起きたことだった。この土地の外がどんな景色をしているのか、僕は本当に、何一つ知らない。
出立の前日、僕は最後にもう一度、道場に足を運んだ。誰もいない板張りの床に、夕暮れの光が長い影を落としている。ここで何百回、何千回と型をさらってきたのか、もう数えきれない。灰色の器しか持たない子供が、こんな場所に立つ日が来るとは、九年前の僕には想像もできなかったはずだ。手のひらを開くと、迷いのない銀の光が、静かに灯った。
「随分と、名残惜しそうな顔だな」
いつの間にか、シャナが戸口に立っていた。
「少しだけ」
「なら、覚えておけ。この道場も、お前の土台も、どこへ行っても消えはしない。積み上げたものは、お前の中にちゃんと残る」
その言葉に、僕は静かに頷いた。
グレアムは、旅装の準備を手伝いながら、何度も持ち物を確認しては小さく頷いていた。
「ロナン様、これも念のためお持ちください」
差し出されたのは、小さな薬包だった。
「傷薬か」
「はい。何かあった時のために。……どうか、ご無事で」
グレアムの声には、いつもの丁寧な口調の奥に、隠しきれない案じる響きがあった。長年この屋敷で僕を見てきた彼にとって、これは特別な旅立ちなのだろう。
出立の朝は、雲一つない晴天だった。空気は刺すように冷たく、吐く息が真っ白に染まる。馬の鼻先からも、同じように白い息が立ち上っていた。屋敷の門の前には、父とグレアムが並んで見送りに立っていた。父は相変わらず表情を崩さなかったが、その目は、じっと僕を見つめていた。
「行ってきます」
「……無事に、戻れ」
短い言葉だった。それでも、そこに込められたものの重さを、僕は確かに感じ取った。
シャナと共に馬に跨り、門を抜ける。振り返ると、見慣れた屋敷と、その向こうに連なる領地の景色が広がっていた。生まれてからずっと、僕の世界のすべてだった場所だ。
その景色が、少しずつ小さくなっていく。
街道の先に広がる景色を、僕はまだ何も知らない。それでも、もう振り返るつもりはなかった。手のひらを一度握りしめる。冷たい朝の空気の中に、白い息が尾を引いて消えた。
初めて、僕は領地の外へ足を踏み出した。




