逃げ帰った部隊
その朝、屋敷の庭には初雪が積もっていた。
音を吸い込むような静けさの中、僕は一人、庭の隅で型をさらっていた。息を吐くたび、白い塊が宙に浮かぶ。雪を踏む感触は、霜よりもさらに柔らかく、そして冷たい。木剣を振るう腕にも、いつもより慎重に力を配る必要があった。降りしきる雪が、道場の屋根にも、井戸の縁にも、等しく積もっていく。世界のすべてが、白く塗り替えられていくようだった。
その静けさを破ったのは、警鐘の音だった。
一度、二度、三度。カルン領の門を守る鐘が、これほど激しく打ち鳴らされるのを聞くのは、九年前のあの夜以来だった。腹の底が、冷たく強張るのが分かった。僕は木剣を放り出し、雪を蹴立てながら門へと駆けた。
*
門前には、すでに人だかりができていた。松明の明かりが、降りしきる雪を橙色に照らしている。担架に乗せられた者、仲間に肩を借りて歩く者、雪の上に座り込んだまま動けない者。血の色が、真っ白な雪の上に、いくつも滲んでいた。うめき声と、指示を飛ばす怒鳴り声が、入り混じって響いている。
「担架をもっと出せ! 医師を呼べ、急げ!」
父の声が、いつになく張り詰めていた。旅装のまま指揮を執る父の姿を、僕はこれまで見たことがなかった。普段は感情を面に出さない、あの父が。
「僕にできることは」
駆け寄ってそう尋ねると、父は一瞬だけこちらを見た。迷うような、それでいて迷っている暇はないという顔だった。
「そこの布を運べ。手が足りない」
「分かりました」
「担架を持てる者は、広間へ運べ。歩ける者から手当てだ。焦るな、一人ずつでいい」
有無を言わせぬ声だった。僕は言われるままに布の束を抱え、負傷者の間を駆け回った。凍える指先に、血の温もりが染みる。ある者は肩を貸してくれと呻き、ある者はただ虚ろな目で雪を見つめたまま動かない。名も知らない兵の傷口を押さえながら、僕は何度も同じ言葉を口にした。「大丈夫だ、もう屋敷の中だ」――それが気休めでしかないと分かっていても、他に言えることがなかった。
以前の僕なら、屋敷の中で書類を抱えたまま、こうした光景をただ遠くから眺めることしかできなかった。今は違う。傷口を押さえる手にも、担架を支える腕にも、迷いはなかった。それだけのことが、今の僕には、はっきりと分かった。
*
広間に運び込まれた負傷者の中に、見覚えのある顔があった。討伐隊の先遣として、フェリクと共に王都へ発った部隊の一人だ。若い騎士――名はコルムといったか。左腕に深い傷を負い、顔は蒼白だった。
「フェリクは」
僕は思わず、その名を口にしていた。コルムは焦点の合わない目を、ゆっくりとこちらへ向けた。
「……ロナン、様」
「フェリクは、どこだ」
「生きて……いるはずです。最後に見た時は」
そこまで言うと、コルムは激しく咳き込んだ。シャナが素早く駆け寄り、彼の傷口に布を当てる。
「無理に話すな。まず、傷を見せろ」
「いえ……話させてください。伝えなければ」
コルムは、震える声を絞り出した。
「森を抜けた先で、統率された魔物の群れに囲まれました。それだけなら、まだ良かった。……あれが、現れたんです」
「あれ、とは」
「人のような、そうでないような。顔を布で覆い、声には……何の感情もありませんでした。杖のようなものを一振りするだけで、味方が三人、まとめて弾き飛ばされました」
コルムの目に、恐怖の色が滲んだ。
「そいつは、俺たちに向かってこう言ったんです。『退くなら、退くがいい』と。まるで、我々の生死などどうでもいいというように。慈悲でも、侮蔑でもない。ただ、淡々と」
広間の空気が、一段と冷え込んだ気がした。魔物が言葉を話す。それも、感情の欠片も感じさせない調子で。
「その者が、部隊を?」
「いいえ……あれ自身は、ほとんど手を下しませんでした。統率された魔物の群れだけで、我々の半数以上が。フェリク様は……殿を買って出られました。俺たちを先に逃がすと」
コルムの声が、そこで詰まった。
「最後に見た時、フェリク様は確かに剣を振っておられました。生きて、戦っておられました。ですが、その後は……前線の砦に取り残されたまま、我々だけが逃げ延びる形に」
「砦は、まだ落ちていないのか」
「分かりません。俺たちが逃げる間、背後で戦う音は聞こえていました。それが、いつまで続いたのか」
それ以上は、コルムも言葉を継げなかった。シャナが彼の肩に手を置き、静かに横たえさせる。
「もう十分だ。よく伝えてくれた」
シャナはそう言ってから、ゆっくりと立ち上がった。その横顔が、いつもと違って見えた。
「シャナ殿。今の話、何か」
「顔を布で覆い、感情のない声で話す者、か」
シャナは僕の問いには答えず、ただ低く呟いた。
「――使徒、か」
「使徒?」
「いや。まだ、確かなことは言えん」
シャナはそう言って、話を打ち切った。だが、その一言を口にした瞬間の彼女の表情を、僕は見逃さなかった。これまで見たどの反応よりも、色濃く動揺していた。
*
広間の隅では、父が家臣たちと何事かを話し込んでいた。声は抑えられていたが、時折漏れ聞こえる単語には「王都への急使」「砦の増援」といった言葉が混じっている。話が一区切りついた頃を見計らって、僕は父に歩み寄った。
「父上」
「なんだ」
「フェリクは、まだ砦に」
「分からん。分からんが、増援を出すよう、王都には急使を立てた」
父の横顔は、蒼白なまま強張っていた。一瞬だけ、その目が僕の方を向いた気がした。何かを言いかけて、しかし結局、父は何も言わずに視線を家臣たちへと戻した。
「僕は」
「お前は、何を言おうとしている」
「僕も、前線へ行くべきではないかと」
父は、その言葉に何も答えなかった。ただ、しばらくの沈黙の後、静かにこう言った。
「今夜は、休め。話は明日だ」
それだけを言い残し、父は家臣たちの方へと戻っていった。取り付く島もない、というより、今この場でその話をする余裕が、父にもないのだと分かった。
*
夜、負傷者たちの手当てが一段落した頃、僕は一人、広間の隅に座り込んでいた。手のひらを見つめる。銀の光は、灯っていなかった。誓を発動する理由が、今はまだない。
――砦は、まだ持ちこたえているだろうか。フェリクは、まだ戦っているだろうか。
分からない。分からないことばかりだった。それでも、ここでただ待っているだけでいいのか、という問いが、これまでにない重さで胸の中に広がっていく。土台を鍛え直せと言われ、その通りにしてきた。剣は確かに上達した。誓の光も、以前より長く灯るようになった。だが、それは全て、いつか役に立つはずの、まだ使われていない力だ。今日という日のために積み上げてきたのではなかったか。
いや――違う。今がその時だとしたら。待てと言われて、大人しく待っていられるほど、僕はもう昔の僕ではないはずだ。
僕は立ち上がり、まだ雪の残る中庭へ出た。降り続く雪が、松明の明かりの中で、静かに舞っている。手のひらを開くと、今度は淡い銀の光が、迷いなく灯った。灯った光をじっと見つめながら、僕は九年前の夜のことを思い出していた。あの時も、何もできずに立ち尽くすだけだった。同じ過ちを、また繰り返すつもりはない。
明日、父にもう一度話す。今度は、退かない。




