鍛え直しの果てに
吐く息が、白く尾を引いて消える。
道場の床は、素足を刺すほどに冷え切っていた。窓の外では、霜に覆われた庭木が朝日を弾いて鈍く光っている。どこか遠くで、鳥が短く鳴いた。木剣を握る手のひらに、乾いた木の匂いが染みついている。フェリクが旅立ってから、季節はもう一巡しようとしていた。
「構えろ」
シャナの声に、僕は木剣を正眼に構え直した。彼女もまた、自分の木剣を軽く持ち上げる。合図もなく、シャナの一撃が飛んできた。以前ならその速さに反応することすらできなかった。今は違う。半歩退いて軌道を外し、返す剣で彼女の胴を狙う。シャナはそれをやすやすと弾き返したが、そこには確かに、以前とは違う手応えがあった。
二合、三合、四合。木剣の乾いた音が、道場の中に規則正しく響く。息が上がり、額に汗が滲む。それでも足は止まらなかった。五合目、シャナの剣先がわずかに流れた瞬間を、僕は見逃さなかった。踏み込み、剣を返す。木剣の先が、確かに彼女の肩先を掠めた。
「――ほう」
シャナが小さく声を漏らし、間合いを取り直した。
「今のは、偶然じゃないな」
「分かりません。ただ、隙が見えた気がしただけで」
「それでいい。見えるようになったこと自体が、成果だ」
シャナはそう言うと、木剣を下ろした。
「今日はここまでにしておくか。もう一つ、試してみよう」
彼女が手のひらを差し出す。合図だ。僕は小さく息を吸い、体の芯に眠るものへと意識を沈めていく。誰かを想う必要はもうない。ただ、自分の中にある約束の重みを、静かに引き上げるだけでいい。
手のひらに、淡い銀の光が灯った。
以前は瞬きの間に消えていたその光が、今は形を保ったまま、ゆっくりと脈打っている。一つ、二つ、三つ――数えながら、僕はその光をただ見つめ続けた。十を超えても、光は消えなかった。
「……十二、か」
シャナが小さく呟いた。
「数ヶ月前は、三つも数えられなかった」
「はい」
「悪くない歩みだ。だが」
「だが?」
「十二数えたところで、格上の敵に通用するかどうかは、まったくの別問題だ。分かっているな」
その一言は、褒め言葉よりもずっと重く、胸の奥に落ちてきた。分かっている。分かっているつもりだった。それでも、こうしてはっきりと言葉にされると、あの日の感触が生々しく蘇る。渾身の誓を込めた一撃が、まるで小石のように弾かれた、あの敗北の記憶。十二数えられるようになったところで、それがどれほどの意味を持つのか、僕にはまだ分からなかった。いや――分からないからこそ、積み重ねるしかないのだ。手を止めれば、そこで終わってしまう。
「今日はここまでにしておけ。根を詰めすぎるのも、良くない」
シャナの言葉に頷き、僕は道場を出た。冷たい朝の空気が、火照った体には心地よかった。息を吐くたび、白い塊が宙に浮かんでは消えていく。庭を抜ける短い道すがら、霜を踏む足音だけが、やけにはっきりと耳に届いた。
*
昼を過ぎた頃、僕は屋敷の書斎で、領地運営の帳簿に目を通していた。跡継ぎとしての仕事は、器の色に関係なく僕に課せられている。暖炉の火が、乾いた薪を爆ぜさせながら、部屋の中に橙色の光を落としていた。窓の外の光は、もう傾き始めている。
「ロナン様。お茶をお持ちしました」
グレアムが、いつものように静かに部屋へ入ってくる。湯気の立つ茶器を机の端に置きながら、彼はふと窓の外へ目をやった。
「今年の冬は、随分と早く来たように思います」
「そうだな」
答えながら、僕はふと手を止めた。
「グレアム。フェリクからの便りは、届いていたな」
「はい。先月までは、月に一度ほど」
「どんな様子だった」
「訓練が厳しい、王都の飯はまずい、と。そんな他愛のない愚痴が、いつも半分を占めておりました」
グレアムはそう言って、珍しく口元を緩めた。フェリクらしい、と僕も思わず笑ってしまう。前回の手紙の最後には、確か「早く実戦に出たい、待つのは性に合わない」と、彼らしい歯切れの良い一文が添えられていた。それを読むたび、僕はどこか安堵し、そしてどこか悔しくもあった。彼はもう、あの遠い場所で戦っている。僕はまだ、ここで型をなぞっているだけだ。
「父上は、フェリクの便りを気にかけているのか」
「旦那様は、口には出されませんが」
グレアムはそこで一度言葉を切った。
「先ほど、朝から出ておられた国境沿いの砦から、お戻りになりました。心なしか、いつもより表情が硬いように、私には見受けられました」
「父上が、そこまで気にするような何かが、あるということか」
「詳しくは、私からは申し上げられません。旦那様にお尋ねください」
その言い方には、以前グレアムが母の話をした時と同じ、踏み込みすぎない重みがあった。父は感情を表に出さない人だ。それでも、書斎の扉越しに、家臣たちと領地の防備について話し込む声を聞くたび、その声音のどこかに、いつもより張り詰めたものを感じることがあった。
グレアムが茶器を片付けて書斎を後にすると、僕は帳簿のページをめくる手を止め、窓の外の庭に目をやった。夕暮れが近づき、霜の残る地面がわずかに橙色に染まり始めている。ちょうどそこへ、父が中庭を横切っていくのが見えた。旅装のまま、供も連れず、一人で。その背中は、いつもよりわずかに重く見えた。
声をかけようか、迷った。だが、父は一度も足を止めず、屋敷の奥へと消えていった。結局、僕はその背に何も言えなかった。フェリクは今頃、どんな景色を見ているのだろう。核の脅威は、まだ終わっていない。母の血筋の秘密も、シャナの過去も、何一つ明らかになっていない。
それでも、以前のように立ち尽くすだけの自分ではない。手のひらを開く。淡い銀の光が、静かに灯った。
*
その夜、僕はもう一度道場に足を運んだ。冷え切った空気の中、灯りは一つだけ。シャナが、いつものように一人で佇んでいる。
「フェリクから、今月はまだ便りが届いていませんね」
何気なく口にしたつもりだった。だが、その一言を聞いた瞬間、シャナの表情が、ほんのわずかに硬くなった気がした。
「……前回の便りから、どれくらい経つ」
「三週間ほどかと」
「三週間、か」
シャナはそう繰り返しただけで、それ以上は何も言わなかった。ただ、いつもより長く、窓の外――遠く西の空を見つめていた。
「シャナ殿?」
「なんでもない。フェリクのことだ、街道の途中で足止めでも食らっているんだろう」
「本当に、それだけだと思いますか」
「思う、と言ったら、信じるか」
その問い返しに、僕は言葉に詰まった。シャナはいつもの飄々とした調子でそう言ったが、その声の奥に、拭いきれない何かが滲んでいるような気がしてならなかった。
「父上も、いつもより表情が硬いように見えました。国境の砦から戻られたばかりで」
「……そうか」
シャナはそれだけ呟くと、視線を僕へ戻した。
「案じたところで、遠くの戦況は変わらん。お前にできるのは、ここで土台を積み上げ続けることだけだ」
「分かっています。分かっていますが」
「分かっているなら、それでいい」
シャナの声は静かだったが、それ以上の問いを許さない強さがあった。僕は何も言わず、手のひらを開いた。銀の光が、静かに脈打っている。この光を、いつか本当の意味で使いこなせる日まで。フェリクが切り開く道と、僕が鍛え上げる土台が、いつか交わるその日まで。
そう思っていたはずの僕の中に、その夜初めて、言葉にならない小さな不安が、静かに根を下ろし始めていた。




