灰色の意地
フェリクが旅立ってから、二週間が過ぎた。
彼からの便りは、まだ届いていない。討伐隊の先遣がどこまで進んでいるのか、僕には知る術もなかった。それでも、遠くで彼が戦っているのだと思うと、自分の修行を怠けるわけにはいかなかった。
道場には、以前よりも静けさが増していた。フェリクの木剣の音が聞こえない朝は、まだどこか物足りない。それでも、その静けさの中で、僕は自分自身の呼吸と、手のひらの奥にある小さな熱だけに、意識を集中させ続けていた。
季節は、少しずつ移り変わろうとしていた。朝の空気には、これまでとは違う澄んだ冷たさが混じり始めている。木々の葉も、わずかに色を変え始めていた。変わらないのは、僕がここで剣を振り続けているという事実だけだった。
「今日の型は、随分と滑らかになったな」
シャナがそう評してくれたのは、修行を再開してから初めてのことだった。
「本当ですか」
「世辞は言わん主義だ」
その一言だけで、これまでの積み重ねが報われたような気がした。誓の光も、以前よりわずかに長く灯っていられるようになっている。まだ格上の敵に通用する自信はなかったが、確実に、僕は変わり始めていた。
その日の夕方、屋敷の書庫で書類仕事を片付けていた僕のもとに、屋敷に長く仕える老齢の執事、グレアムが茶を運んできた。彼は物心つく前から屋敷にいる、数少ない生き証人の一人だった。
「ロナン様。近頃、随分と精が出ておられますね」
「グレアムから見ても、そう見えるか」
「ええ。……奥様も、きっとお喜びでしょう」
その一言に、僕は思わず顔を上げた。母のことを、グレアムが口にするのは珍しかった。
「母のことを、何か知っているのか」
グレアムは少し躊躇うように間を置いてから、静かに語り始めた。
「奥様は、遠い土地からこの屋敷に嫁いでいらっしゃいました。詳しいことは、私も存じ上げません。ですが、昔、奥様の故郷について、旦那様がぽつりと漏らされたことがございます」
「何と」
「『あの血筋は、昔語りに出てくるような一族の末裔らしい』と。それ以上のことは、私も聞かされておりません」
昔語りに出てくるような一族。その言葉が、僕の中で妙な重みを持って響いた。灰色の器。系統すら定まらない、この曖昧な色。それが、母の血筋と関係しているのだろうか。
「父上は、そのことを知っているのか」
「詳しくは、旦那様にお尋ねください。私が申し上げられるのは、ここまでです」
「父上に、聞いてみるべきか」
「差し出がましいことを申しますが……今は、まだよろしいのではないかと。旦那様にも、旦那様なりのお考えがあるように、お見受けいたします」
グレアムの言葉には、長年この屋敷に仕えてきた者だけが持つ、独特の重みがあった。父が語らずにいることには、何か理由がある。その理由に、今の僕はまだ触れるべきではないのかもしれない。
グレアムはそう言って一礼すると、静かに書庫を後にした。残された僕は、しばらくの間、ペンを止めたまま、その言葉を反芻していた。
窓の外はすでに橙色に染まり、書庫の棚に並んだ古い書物の背表紙を、淡く照らしていた。母の故郷。昔語りに出てくるような一族。これまで考えたこともなかった問いが、静かに、けれど確かに、僕の中に根を下ろしていくのを感じた。
夜、僕はもう一度、道場に足を運んだ。シャナが、いつものように一人で佇んでいた。
「シャナ殿」
「まだ起きていたのか」
「母の血筋について、何かご存知ですか」
僕がそう尋ねると、シャナは珍しく、驚いたような表情を見せた。
「なぜ、それを」
「グレアムから、少しだけ聞きました。昔語りに出てくるような一族の末裔だと」
シャナはしばらく沈黙した後、窓の外、遠く西の空へと視線を向けた。あの、いつもの仕草だった。
「――いずれ、話すべき時が来る。だが、今ではない」
「シャナ殿も、何か知っているんですね」
「知っている、というより……昔、似たような話を聞いたことがある、というだけだ。核の一件と、同じようにな」
その言葉に、僕は息を呑んだ。母の血筋と、核。一見繋がりのなさそうな二つの言葉が、シャナの中では、何か一本の線で結ばれているように聞こえた。
「教えてください」
「今のお前には、まだ早い」
シャナの声は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。
「土台を固めろ、ロナン。答えを知る資格は、それを受け止められるだけの強さを身につけた者にしか与えられない」
それ以上、僕は食い下がることができなかった。悔しさと、もどかしさが胸の中で渦を巻いたが、同時に、シャナの言葉には確かな理がある気もした。
「分かりました。だったら、その強さを、僕は必ず手に入れます」
「そうか」
シャナは柔らかく笑った。
「その意地、忘れるなよ。灰色の器を持って生まれても、腐らずにここまで来た。その意地こそが、お前の一番の武器だ」
道場を出ると、夜空には満天の星が広がっていた。冷たい夜気が、火照った体に心地よい。頬を撫でる風には、来る季節の気配がはっきりと混じっていた。フェリクは今頃、どこかの空の下で戦っているのだろうか。母の血筋の秘密、核の正体、シャナの過去。まだ何も明らかになっていない謎ばかりが、僕の前に積み重なっている。
それでも、以前のように立ち尽くすだけの自分ではなかった。この手のひらの奥に眠るものが何であれ、僕はもう、それを恐れなかった。
手のひらを開く。淡い銀の光が、静かに、けれど確かに灯った。
この光を、いつか本当の意味で使いこなせる日まで。フェリクが切り開く道と、僕が鍛え上げる土台が、いつか交わるその日まで。
僕は、灰色の意地を、まだ捨てるつもりはなかった。




