第2話 『はい?』も肯定に変換される家
アサギリ家の朝は、だいたいこうして始まる。
「ユウ、今日は午前中に剣術、午後は王都語の発音練習ね」
「……はい」
「夕食後は礼法の復習もしましょう」
「はい?」
「ええ、助かるわ。じゃあ食後に一時間だけにしましょう」
「…………はい」
ユウ・アサギリ、十七歳。
今朝も人生の主導権を、朝食前に失った。
食卓の向かいで、父ケンジが味噌汁を啜りながら遠い目をしていた。
この顔になる時、父はだいたい「もうどうにもならない」を悟った直後だ。
十七年でユウはそれを学んだ。
「ケンジさん、今日は薪が少ないから割っておいてもらえる?」
「……はい」
父まで感染していた。
この家における会話の構造は、ユウが物心ついた頃からずっと同じだ。
母が話す。
ユウが口を開く。
母が続ける。
ユウの発言は消える。
疑問は確認に変換され、沈黙は熟慮の末の同意として処理される。
この家では、反論だけが最初から存在しない。
一度だけ、ユウは実験したことがある。
母が話し終わる前に、先に言葉を差し込めば会話の主導権を奪えるのではないか、と。
結果、母の話速が〇・三秒だけ上がり、ユウの「あ」は完全に飲み込まれた。
その後ミツキは何事もなかったように、
「じゃあそういうことで」と締めた。
何が「そういうこと」なのか、ユウには最後まで分からなかった。
「ユウ、来週の王都語の試験、準備できてる?」
「は——」
「そう。じゃあ今日の夜に一度確認しましょう。教材は机の上に出しておくから」
「…………はい」
ケンジがそっとユウの肩を叩いた。
慰めなのか、諦めの共有なのか、判断がつかなかった。
たぶん両方だった。
朝食後、ユウは庭で木剣を振っていた。
素振り百回。
足運び三十往復。
姿勢修正十五回。
それを、ミツキが腕組みしながら見ている。
「脇が少し開いてるわ」
「……はい」
「今の一歩、右足が半歩深い」
「……はい」
「いい感じよ。魔王軍幹部クラス相手なら、初動の三手までは取れるわね」
「その想定が日常会話に出てくるの、やっぱりおかしいって!」
縁側からケンジが叫んだ。
「まだ村の外にも出てないんだぞ!?」
「だから今のうちに備えるのよ」
「備え方が過剰なんだよ!」
「あなたは昔から危機管理が甘いのよ、ケンジ」
「俺は普通なんだよ!」
夫婦の応酬を背中に受けながら、ユウは木剣を振る。
剣の練習そのものは、嫌いではなかった。
何も喋らなくていいし、
何を考えているか聞かれないし、
何より、剣を振っている間だけは「次に何を答えるべきか」を考えなくて済む。
ただし、それを口にしたら最後、母はたぶんこう言う。
「やっぱりこの子は勇者向きだわ」
なので言わない。
言えない、ではない。
言わない方が被害が少ないと学習した結果だった。
そんなある昼下がり。
「ごめんくださーい」
玄関から、のんびりした声が響いた。
村長だった。
七十近い老人で、村一番の物知りを自称しているが、たいていの場合それは村一番のおしゃべりと同義だった。
ケンジが応対に出ると、村長はどこか落ち着かない様子で羊皮紙を取り出した。
「アサギリさん、大変だ……王都からお達しが来ましてな」
「嫌な予感しかしないな……」
「ほれ、これです」
そこには、王家の紋章が押されていた。
ミツキが羊皮紙を受け取り、一読する。
その表情は驚きではなく、確認に近かった。
「『予言の勇者候補調査のため、該当する若者を王都へ』——ですって」
「そうなんですよ。村でそれらしい子がいるか、一応確認しろと」
「ええ、うちの子です」
「いや待て」
ケンジが立ち上がった。
「まず確認しよう。この通達は“該当者がいれば”の話だ。うちのユウが勇者である証拠は何もない。産声が変だったのは認める。でもあれは偶然だ。十七年間、何も起きてない。魔物が避けてきたわけでも、聖なる光を放ったわけでも——」
「旅支度は昨日のうちに済ませてあるから」
「聞いてた!?」
ミツキは穏やかな顔のまま、さらりと続けた。
「王都までは馬車で二日半。天候が崩れた場合は三日。出発は明後日の朝が最適ね」
「最適とかじゃないんだよ! まず“行くかどうか”の話をしてるんだ!」
「行く前提の話をしているのよ」
「なんで!?」
「呼ばれたから」
「その“呼ばれた”を断る自由は!?」
「ないわね」
「言い切った!?」
村長が「はあ……では、そのように使者へ……」と頷きかけたところで、ケンジがそちらを振り返る。
「村長さんまで流されないで!?」
「いやあ……ミツキさんがそう言うなら、たぶんそうなんじゃろうなあって……」
「村ぐるみで諦めるな!」
その騒ぎの中心で、ユウだけが固まっていた。
王都。
その言葉だけが、頭の中でぐるぐる回る。
行ったことがない。
知らない人間しかいない。
何を聞かれるのかも分からない。
そもそも、自分がそこへ行く理由が、本人にいまいち分かっていない。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
「……い」
言わなければ、と思った。
せめて一度くらいは。
「いいえ」と。
「い——」
「そうね」
ミツキが、ほぼ同時に頷いた。
「明後日では少し遅いかもしれないわね。王都に着いてから休息日を一日入れるなら、明日のうちに馬具の最終確認を済ませて、明後日の夜明け前に出るのがいいわ」
「……え」
「あなたの『い』は、今の予定では準備が甘いという指摘でしょう? さすがユウ。移動疲れまで考慮しているのね」
「いや、違っ……」
「分かってるわ。保存食の配分も見直しましょう」
ユウは、開いた口をそっと閉じた。
まだ一文字も言い切っていない。
それなのに、自分の未来が、もう王都までの道程ごと確定していた。
ケンジが最後の抵抗とばかりに、息子の肩を掴んだ。
「ユウ! お前はどうなんだ! 行きたいのか、行きたくないのか、はっきり言ってみろ!」
真正面からそう聞かれて、ユウは息を呑んだ。
父の必死な目。
母の穏やかな笑顔。
村長の「まあそうなるよね」という空気。
全部が自分を見ている。
喉が震える。
心臓がうるさい。
何か、何か一つでいいから——
「はい」と「いいえ」以外の言葉を。
「……は、はい?」
「よし、決まりね」
ミツキが満足そうに頷いた。
「前向きな返事をありがとう、ユウ」
「違うだろ今のは!!」
ケンジの叫びが、家中に響いた。
だがもう遅かった。
ミツキはすでに納戸へ向かっていた。
あの歩き方は、完全に「段取りが一つ進んだ時の歩き方」だった。
その日の午後、アサギリ家は異様な速度で旅支度に突入した。
いや、正確には——
ミツキだけが、ずっと前から旅支度を終えていた。
納戸を開けると、そこには整然とまとめられた荷物が並んでいた。
旅装束。
保存食。
薬草。
包帯。
地図。
方位磁針。
火打ち石。
携帯食器。
裁縫道具。
予備の靴紐。
なぜか用途別に分けられた小袋の数々。
ユウはしばらく無言でそれを見つめた。
「……なにこれ」
「王都行きの基本装備よ」
「なんで、もうあるの……」
「必要になると思って」
「いつから……」
「六年前から少しずつ」
「怖い」
思わず本音が漏れた。
だがミツキは、やはり一切動じない。
「そうよね。王都は怖い場所かもしれないわ」
「いや、そっちじゃ——」
「だからこそ、準備が大事なの」
「…………はい」
結局、いつもの場所に着地する。
ケンジは荷物の山を見て、呆然としていた。
「なんで“王都に行くかもしれない時用の塩の量”まで決まってるんだよ……」
「現地で買うと割高だからよ」
「生活感のある恐怖やめてくれ」
ミツキは手際よく荷物を仕分けていく。
「ユウ、これはあなたの分。軽いものを中心に入れてあるわ」
「……はい」
「こっちはケンジの分」
「俺も行くの!?」
「当たり前でしょう」
「えっ」
「息子の初遠征よ?」
「“遠征”って言った今!?」
「あなた一人で留守番する?」
「行きます」
即答だった。
父親としての愛情もあったが、それ以上に家に一人残される恐怖が勝っていた。
夕方になる頃には、家の中の空気そのものが少し変わっていた。
いつもの家。
いつもの台所。
いつもの食卓。
いつもの匂い。
なのに、「明後日ここを出る」という事実があるだけで、
その全部が少しずつ見慣れないものに見えた。
夕食はシチューだった。
ユウはスプーンを持ったまま、ぼんやりと皿の中を見ていた。
「ユウ」
母が呼ぶ。
「王都へ行ったら、まずは人をよく見なさい」
「……はい」
「喋るより先に、観察するの」
「……はい」
「無理に多くを話さなくていいわ」
その言葉に、ユウは少しだけ顔を上げた。
ミツキは、いつもの調子でパンをちぎりながら続ける。
「あなたは昔から、必要なことだけ言えばいい子だもの」
「……」
「『はい』と『いいえ』だけでも、案外なんとかなるわ」
ケンジがスプーンを止めた。
「いや、それはならない」
「なったでしょう?」
「この家だけだよ!」
「外でも大丈夫よ。この子はちゃんとしてるもの」
「ちゃんとしてるの定義が怖いんだよなあ……」
父のぼやきに、ユウは小さく視線を落とした。
不思議だった。
たぶん母は、本気でそう思っている。
ふざけているわけでも、適当に言っているわけでもない。
この人は本当に、
“自分の息子なら大丈夫だ”と信じ切っているのだ。
その信頼は、かなり重い。
だいぶ怖い。
正直、だいぶ迷惑でもある。
でも、ゼロではない温度がそこにはあった。
「……はい」
そう返すと、ミツキは満足そうに頷いた。
夜。
荷物は、すでにまとめ終わっていた。
着替え。
簡単な日用品。
木剣。
母に持たされた、よく分からない薬草袋。
父がこっそり入れてくれた干し肉。
そして、空いた少しの隙間。
ベッドに腰掛けたユウは、窓の外を見た。
見慣れた庭がある。
柵がある。
井戸がある。
昼間、薪を積んだ場所が見える。
全部、いつものままだ。
なのに明後日には、ここからいなくなる。
ユウは自分の胸の内を探ってみた。
王都に行きたいかと聞かれたら、
正直、あまり行きたくない。
勇者候補になりたいかと聞かれたら、
まったくなりたくない。
じゃあ、この家にずっといたいかと聞かれたら——
「……」
それも、少し違う気がした。
この家は安心できる場所だ。
怖いけど。
理不尽だけど。
会話は成立しないけど。
でも同時に、ここにいる限り——
自分の人生は、ずっと誰かの返答欄の中にある気もしていた。
縁側の方から、虫の声が聞こえる。
風が草を揺らす音もする。
遠くで、誰かの笑い声がした。
いつも通りの、村の夜だった。
(明後日、ここを出る)
その事実が、今さらじわじわと染み込んでくる。
おかしな話だと思った。
ここを出るのに、帰りたい。
この縁側も、この虫の声も、この面倒くさい日常でさえ——
出ると決まった瞬間、少しだけ惜しくなった。
(どうせ帰ってくるけど)
そう思おうとして、ふと止まる。
でも——
「帰る」と、自分で決めたことが一度でもあっただろうか。
風が吹いた。
草が揺れた。
そのとき、障子の向こうから母の声がした。
「ユウ、もう寝るのよ」
「……はい」
「明日は早いから」
「……はい」
少し間を置いて、今度は父の声が小さく続いた。
「……ユウ」
「?」
「その……なんだ。無理すんなよ」
ユウは、しばらく返事ができなかった。
それから、ようやく小さく答えた。
「……はい」
足音が遠ざかる。
部屋に静けさが戻る。
ユウはもう一度だけ、窓の外を見た。
まだ一歩も外に出ていないのに、
胸の奥には、もうひとつの感情が浮かんでいた。
(……帰りたい)
家を出る前から、もう帰りたかった。
その理不尽さに、自分で少しだけ笑いそうになる。
でも笑えなかった。
ユウは布団に潜り込んだ。
目を閉じる。
明日になれば、きっと全部が始まってしまう。
だからせめて、今夜だけは——
まだ何も始まっていないふりをしていたかった。




