第1話 勇者は『はい〜』で生まれた
アサギリ家に、朝が来た。
村はずれの小さな家。洗濯物が風に揺れ、鶏が庭を歩き、どこからかパンの焼ける匂いがする。
絵に描いたような、平和な朝だった。
その平和な家の寝室で——
ミツキ・アサギリは、今まさに出産の真っ最中だった。
汗と気合いと母性と、あと若干の怒気が混じった顔で、彼女は力んでいた。
立ち会いの産婆が「もう少しですよ!」と叫び、夫のケンジが「ミツキ! ミツキ!」と手を握って、部屋全体が一つの命の誕生に向かって——
「はい〜」
止まった。
産婆の手が、止まった。
ケンジの瞬きが、止まった。
ついでに庭を歩いていた鶏まで、なぜか一歩だけ止まった気がした。
生まれたばかりの赤ん坊が、産声の代わりにそう言ったのだ。
「はい〜」
と。
語尾が間延びしていた。
返事にしてはずいぶん呑気だった。
でも確かにそれは——「はい」だった。
「……え?」
と言ったのは、たぶん全員だった。
三秒の沈黙。
産婆が「……あら?」と首を傾げた。
ケンジが「え、今……なんか言った? 喋った? 赤ちゃんが?」と声を裏返らせた。
そしてミツキは。
柔らかく、静かに、でも一切の迷いなく——微笑んだ。
「この子……勇者だわ」
「いや待て」
ケンジが即座に言った。
「赤ちゃんは喋らない。これはただの産声だ。たまにそういう声が出ることはある。俺は聞いたことがある。だからこれは——」
「剣術は五歳から始めましょう。でも体幹は今からね。産婆さん、この子の握力はどうでした?」
「あ、はい、わりとしっかりしてましたよ」
「産婆さんまで乗るな」
ミツキは動じなかった。
すでに指を折りながら計算を始めていた。
王都までの距離。
魔王軍の現状。
勇者に求められる素養。
教育カリキュラム。
乳歯の生える時期。
離乳食の栄養設計。
夜泣きを肺活量訓練に転用する方法。
「待って最後の二つおかしいだろ」
ケンジの抗議は、当然のように流された。
「あ、それと産婆さん。臍の緒、取っておいてもらえます?」
「え、あ、はい……?」
「旅先のお守りにしようと思って」
「産婆さん!?」
ケンジの叫びは、天井に吸い込まれた。
ミツキは生まれたばかりの息子をそっと抱き上げる。
その横——なぜかすでに、木剣が一本立てかけてあった。
「……いつからそこにあるの」とケンジが呟いた。
「昨日から」
「なんで出産に木剣を」
「備えよ常に、でしょう」
「それは防災の話だよ」
ミツキは答えなかった。
ただ窓の外の空を見て、静かに言った。
「名前はユウにしましょう。勇者のユウ」
「……それはもう名前に意味を持たせてるよね」
「大丈夫」
ミツキは、生まれたばかりの息子を胸に抱いたまま、穏やかに微笑んだ。
「この子は、きっとちゃんとやれる」
腕の中のユウは、もう一度だけ言った。
「はい〜」
ケンジは天井を仰いだ。
この日から十七年。
アサギリ家において、彼の発言が正式採用された記録は、たぶん一つもない。
それから十七年。
英才教育は実施された。
剣術も、礼儀作法も、王都語の発音も、地図の読み方も、応急処置も、馬の扱い方も——全部習った。
そして十七年かけて、ユウが学んだことが一つある。
この家では、発言は意思表示ではなく、処理待ちの入力だ。
喋ろうとした瞬間に終わる。
「ユウ、今日の訓練どうだった?」
「は——」
「そう、よく頑張ったわね。明日は魔法理論の基礎に入りましょう。教材はもう用意してあるから」
「……はい」
「夕食の後は礼法の復習ね」
「はい?」
「ええ、助かるわ。じゃあ食後に一時間だけにしましょう」
「…………はい」
これが、ユウの十七年だった。
その日の午後、ユウは家の軒先に座って空を見ていた。
雲が流れていた。
どこか遠くへ、ゆっくりと。
「ユウ、午後は地図の復習をするから、その前に薪を割っておいてね」
家の中から、母の声が飛んできた。
「……はい」
「それと村長さんのところへ寄って、王都語の発音を確認してもらって」
「……はい」
「あと馬具の手入れも」
「……はい」
空を見上げた。
さっきまで見えていた雲は、もう軒と屋根と母の予定に隠れていた。
(帰りたい)
どこへ、とは言えなかった。
ここが家なのだから。
でもなんとなく——
もっと違う場所に、もっと違う自分がいるような気がして。
「ユウ、ご飯よ。今日はオムライスでいい?」
ユウは少しだけ考えてから、言った。
「……いいぇ」
「そうだったわね。昨日ひき肉を買ったものね。今日はハンバーグだったわ」
ユウは立ち上がった。
世界は今日も、彼の「いいえ」を聞かなかった。
第1話 了




