第3話 冷風の中で、受け止めてくれた人
放課後、星奈は用事があって、一緒には帰れなかった。私は鞄を肩にかけて、一人でゆっくりと校門を出た。夕方の風は少しひんやりしていて、スカートの裾をふわりと揺らしていく。道には、何人かずつ連れ立って駅へ向かう生徒たちがいて、話し声や笑い声が混ざり合い、とても賑やかだった。けれど、その賑わいはすぐ近くにあるはずなのに、どこかとても遠いもののようにも感じられた。
俯いたまま歩いていた。靴の先が、地面に落ちた光と影をひとつずつ踏んでいく。その一方で、頭の中には昼間の些細な出来事ばかりが何度も浮かんでいた。
途中で途切れた会話。ふいに逸らされた視線。口にされたわけじゃないのに、口にされるよりもずっとはっきりと伝わってくる距離感。それは刃物みたいに、一瞬で血を流させるものじゃない。けれど、細かな砂みたいに、少しずつ胸を擦っていく。そうして積もっていくうちに、気づけば呼吸をすることさえ、少しだけ苦しくなっていた。
電車が駅に着いたとき、私は端の席に座り、鞄を膝の上に抱えていた。窓に映るのは、少し血の気の引いた自分の顔と、どこか疲れたような目。列車がゆっくりと動き出したそのとき、スマホがふいに震えた。
「今日は大丈夫?」
星奈からのメッセージだった。
その一行を、じっと見つめる。
ただの短い一言のはずなのに、胸の奥がふっと触れられたみたいに揺れる。一日中、無理やり押し込めてきたものが、その瞬間、ほどけてしまいそうになった。指先は画面の上で止まったまま、何度も打っては消し、消してはまた入力して、ようやく一行だけ送る。
「大丈夫。星奈は……今日もいろいろ言われたでしょ」
送信したあと、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。車内アナウンスが頭上を流れ、人の出入りが続いている。決して静かじゃないはずなのに、耳に届くのは、自分の心臓の音ばかりだった。
しばらくして、画面がもう一度光る。
「大丈夫。後悔なんてしてない。次は、もう一度、遥のために勇気を出したい」
その言葉を見た瞬間、視界がふっと滲んだ。
本当に前に立っていたのは、星奈のほうだった。あの視線も、あのざわめきも、言葉にならない圧も、全部正面から受け止めていたのは、きっと彼女のほうだ。それなのに、引こうとしなかった。自分を小さく畳んで隠そうともせず、むしろ、その勇気をさらにもう一歩先へ進めようとしていた。
それに比べて、私は。
まだ何もしていない。ただ星奈の後ろにいて、守られて、引っ張ってもらっている側のままで。それなのに、今日あったことだけでこんなにも気持ちが沈んで、胸の奥が詰まるように苦しくなっている。息をするだけで、少し重たい。
でも分かっていた。今日向けられたあの視線も、あの沈黙も、あの息苦しい空気も、彼女だって同じように受け止めていたことを。むしろ、私以上に背負っていたのかもしれない。それでも、降りかかる視線を受け止めながら、私たちの未来のために勇気を支え続けていた。
そう思った瞬間、胸の奥に、言葉にできない熱を帯びた痛みがじわりと込み上げてきた。何かが心の深いところで、ゆっくりと熱を持ちはじめるみたいに。指先まで、かすかに震えてしまう。その感情は、ただ悲しいだけでも、ただ胸を打たれただけでもなかった。二つの感情が静かに絡まり合って、重たく胸に沈んでいるのに、それでも確かな温度を持っていて、どうしても見ないふりができなかった。
すぐには返信できなかった。ただ、画面に浮かぶその一行をずっと見つめていた。まるで、ずっと遠くから差し込んできた一筋の光を見ているみたいに。眩しいわけじゃないのに、それだけで、冷えかけていた心の奥の場所を、少しずつ、もう一度あたためてくれるようだった。
***
翌日の昼休み、私は手を洗いにトイレへ行った。蛇口から流れ出る水は少しひんやりしていて、指先に触れた瞬間、朝からずっとぐちゃぐちゃだった思考が、ようやく少しだけ静まっていく気がした。けれど、俯いたまま手を洗っていたそのときだった。洗面台のそばにいた何人かの下級生の女子たちが、急に声を潜めて、ひそひそと話し始めた。
「気をつけたほうがいいよ。あの佐藤って子、神崎先輩の『彼女』らしいし」
「えっ……あの神崎先輩の? なんか、神崎先輩まで巻き込んでる感じするんだけど」
「私が神崎さんだったら、恋愛のためにあそこまで犠牲になりたくないけど〜」
その言葉は、小さいくせに妙に鋭くて、耳に入った瞬間、まるで細い針を何本も刺されたみたいだった。
体が一気に強張る。手にはまだ水が流れ落ちていて、指先から洗面台へとぽたぽた垂れているのに、その冷たささえ急に遠く感じられた。振り返ることもできないまま、そのとき——トイレの入り口のほうから、「カチャ」と乾いた音がした。
ドアが開いた。
「その口、ちゃんと閉じときな」
その声は氷みたいに冷たくて、落ちた瞬間、空気そのものが一瞬で凍りついたみたいだった。
私は顔を上げる。ドアのところに、黒羽が立っていた。片手をポケットに突っ込んだまま、表情はほとんど動かない。それなのに、その視線だけは鋭くて、まともに見返せないくらいだった。そのまま女子たちへと目を向けて、一語ずつ、はっきりと言い放つ。声は高くないのに、そこには一切の余地がなかった。
「遥のこと、あんたたちが口にする資格なんてないでしょ」
さっきまでくすくす笑っていた女子たちは、一瞬で黙り込んだ。まるで、その場で喉を塞がれたみたいに。表情まであからさまに慌て始めて、目を逸らしたまま、そそくさと黒羽の横をすり抜けていく。その足取りは、ほとんど逃げるみたいだった。
すぐに、トイレの中はまた静けさを取り戻した。残ったのは、水が細く流れ続ける音だけだった。
黒羽はそのままこちらへ歩いてきた。でも、すぐには私を見なかった。ただ洗面台の横に立って、いつも通りの淡々とした口調で、ひとことだけ言った。
「もう行ったよ」
私はその場に立ったまま、俯いていた。手はまだ洗面台の縁に置いたままで、何か言わなきゃと思うのに、喉がうまく動かない。胸の奥を何かに強くぶつけられたみたいに痛くて、そのまま酸っぱいものが一気に込み上げてくる。気づいた次の瞬間には、ぽろりと涙が落ちていた。
ぱた、と小さな音を立てて、白い洗面台の上に透明な雫が散る。
「……ありがとう、黒羽」
自分でも驚くくらい小さな声だった。しかも、少し震えていた。
そのときになって、ようやく黒羽がこっちを見る。いつも少し冷たく見えるその顔は、特別優しい表情をしているわけでもなかったし、声だって相変わらず淡々としていた。なのに、だからこそ、その奥にあるものが、かえってはっきり伝わってきた。
「これ以上泣いたら、あとで神崎さんに見られたら、私がいじめてるって思われるよ」
私は一瞬きょとんとして、それから思わず笑ってしまった。
まだ涙は頬に残っているままで、きっとひどくみっともない顔をしていたと思う。それでもなぜか、胸の奥がそっと支えられたみたいに、ようやくあの冷たさが少し和らいだ気がした。
ずっと、この恋は私たち二人きりで風の中に立っているものだと思っていた。お互いの手を強く握りながら、目の前に向けられるすべての視線を、ただ必死に受け止めていくしかないのだと。
でも、そのとき初めて気づいた。後ろには、もう一人いたのだと。
特別なことを言ってくれたわけでもないし、わざとらしく距離を縮めてきたわけでもない。それでもあの瞬間、さりげなく私たちの側に立ってくれて、あの軽くて鋭い言葉たちから、静かに守ってくれていた。




