第1話 嵐のあとの静けさ
あの日の昼休み、星奈がみんなの前で私の手を取って、あんなふうに宣言みたいな言葉を口にしてから、教室の空気は薄い霧にゆっくり包まれていくみたいに変わってしまった。表面上は、何も変わっていないように見える。先生はいつも通り授業をして、チャイムもいつも通り鳴って、窓の外から差し込む陽の光も変わらず教室を照らしている。
それなのに、何かが確かに、静かに変わってしまっていた。
あからさまに嫌味を言ってくる人はいなくなったし、このことを面白がって堂々と笑うような人もいなかった。けれど、だからこそ、その無理やり保たれているような静けさのほうが、どんなひどい言葉よりもずっと息苦しかった。
——みんな、別に悪意があるわけじゃない。ただ、どう接していいか分からないだけ。
私は何度も何度も、心の中でそう言い聞かせた。胸の奥にじわりと広がる重たさを、その言葉で押し込めてしまいたかったから。
でも、本当は自分でも分かっていた。そんなに簡単な話じゃないって。たとえ悪意がなかったとしても、ひとつだけ確かなことがある。みんなが私を見る目は、もう前とは少し違ってしまっている。
朝のホームルーム前。私はいつも通り少し早めに教室へ入り、鞄を置いてから、一時間目に使う教科書を出そうとしていた。教室にはもう何人かの女子が来ていて、窓際で立ちながら話している。手にはコンビニで買ってきた紙パックの牛乳があった。
いつもなら、その中の誰かがきっと私に手を振って、「昨日の数学の宿題やった?」とか、「今日また小テストあるんだけど最悪なんだけど」とか、そんな何気ないことを声に出していたはずだった。
でも、今日、教室に入った瞬間、彼女たちの声がほんの一瞬だけ止まった。
大げさなくらい不自然に静まり返ったわけじゃない。ただ、さっきまで自然に流れていた会話が、誰かにそっと手で押さえられたみたいに、ほんの短く途切れただけだった。次の瞬間には、何もなかったみたいにまた話し始める。ただ、誰一人としてこちらを見ようとはしなかった。胸の奥を、何か細いものがちくりと刺した……きっと、ただの偶然なんだと思おうとした。
私は俯いたまま筆箱を取り出し、国語の教科書を開いて、昨日先生に「予習しておいて」と言われたページをめくる。何も気づいていないふりをしたかった。でも席に座ったあと、やっぱりどうしても気になって、そっとそちらへ視線を向けてしまった。
そのうちの一人の女子と、ちょうど目が合った。ほんの一瞬だけ。けれど彼女は、何か熱いものに触れてしまったみたいに、すぐに視線を逸らした。その瞬間、胸の奥にずっと引っかかっていたあの重たさが、急にはっきりと形を持った気がした。
一時間目はグループディスカッションだった。先生がプリントを配り、いつも通り前後四人で一組になって、文章の要点を整理するよう指示を出す。
前なら、こんなことはいちいち考える必要もなかった。前の席の子が少し机を後ろへ引いて、隣の子が自然に椅子を寄せてきて、誰かが問題を読み上げて、誰かが答えを書き取る。ときどき一文をめぐって小さく言い合いになることさえ、当たり前の流れだった。
でも今回は、先生が「じゃあ始めて」と言ったあと、私の周りにほんの一瞬、妙な空白が生まれた。
前の席の女子は俯いたまま、自分のプリントを整えている。その動きは、いつもより少しだけ遅い。右隣の子は後ろの席に振り向いて、何かを確かめるように話しかけている。まるで急に別の用事を思い出したみたいに。
みんな、ちゃんと元の席に座っている。誰もあからさまに避けているわけじゃない。けれど空気の中には、確かにかすかな拒むような気配があった。まるで誰も、自分から先に机をこちらへ寄せようとはしないみたいに。
私はペンを握ったまま、手のひらにじわりと汗がにじんでいくのを感じていた。
そして最後に、斜め前に座っていた女子が、小さな声で言った。
「じゃあ……まず一問目から見ようか」
私の方を見なかった。声も平坦だった。ただ、やらなければいけないことを、仕方なく口にしただけみたいに。
視線を落としてプリントを見つめながら、なんとかみんなのペースについていこうとした。誰かが問題を読み上げて、誰かが答えを口にする。
その流れの中に、私も何度か言葉を差し挟もうとした。けれど、声が出るたびに、その場の空気がほんの一瞬だけ不自然に止まる。無視されるわけじゃない。ただ、返ってくる反応がいつもほんの少しだけ遅い。まるでみんな、返事をする前に、どんな顔をして、どんな声で返せばいいのか、一度考えなければいけないみたいだった。
その感じは、はっきり嫌われるよりも、ずっと苦しかった。だって、誰も何かを間違えたわけじゃないのに。それでも、はっきりと感じてしまう。
——もう、前みたいに自然に接してもらえる側の人間ではなくなってしまったんだって。
昼休みも同じだった。
黒羽が誰かと約束していないときは、たいてい一緒にお昼を食べてくれる。窓際の席に座って、彼女がゆっくりお弁当を食べながら、私の取り留めのない話を聞いてくれることもあるし、ただ向かいに静かに座って、ときどきぽつりとツッコミを入れてきて、それで思わず笑ってしまうこともある。
でも今日は、ちょうど黒羽に予定があった。星奈も先生に呼ばれて手伝いに行っている。
いつもなら、私が一人でいるのを見かけたクラスメイトの誰かが、ごく自然に手を振って、「一緒に食べる?」と声をかけてくれていた。何気なく「一緒に食べようよ」と言ってくれる子もいれば、自分のお弁当を少し横へずらして、分の場所を空けてくれる子もいた。そういう小さな誘いは、前までは呼吸みたいに自然なもので。
でも今は、そういうものが全部、急になくなってしまったみたいだった。
前なら声をかけてくれていた子たちが、まるで急にそれぞれ別の予定を持ってしまったみたいに動き始める。別のクラスの友達のところへ行くと言う子。先生に頼まれたことがあるから先に行かなきゃと口にする子。あるいは何も言わずにお弁当を持ち上げて、「あっちで食べるね」と隣の子にだけ言って、そのまま教室の反対側へ歩いていく子もいた。
その全部が、とても自然だった。ほんの偶然そうなっただけみたいに見えるくらいに。誰もわざと冷たい顔をするわけじゃないし、露骨に避けるようなこともしない。話し方もいつも通りで、動きも自然で、あまりにも自然すぎて、こんなことで傷ついてしまう私のほうが、むしろ気にしすぎなんじゃないかと思えてしまうほどだった。
でも、だからこそ、空いたままのその場所が、余計にはっきり見えてしまう。まるで誰にも押しのけられてはいないのに、それでももう誰も、こちらへ手を伸ばしてはくれないみたいに。
自分の席に座ったまま、机の上で一人、ゆっくりとお弁当箱を開けた。蓋を持ち上げると、いつもの匂いがふわりと漂ってくる。中に入っている卵焼きは、朝少し詰めすぎたのか、端のほうが少しだけ潰れていた。白いご飯の横には、いつも通りのたこさんウインナーが並んでいる。赤くて、小さくて、きちんと整った足まで、変わらず可愛かった。
お母さんがいつも通り作ってくれたお弁当。何ひとつ、普段と変わっていないはずなのに。
それなのに、なぜか今日だけは、やけに静かに見えてしまった。
一口ご飯を口に運び、俯いたままゆっくり噛んだ。自分がちゃんと食べているのか、それともただ機械みたいに時間をやり過ごしているだけなのか、もうよく分からなかった。
耳には、相変わらず教室のあちこちから笑い声や話し声が届いてくる。昨日のバラエティ番組の話をしている子。数学の先生がまた変な問題を出したと文句を言っている子。放課後、新作のミルクティーを買いに行くかどうかで盛り上がっている子。
誰も黙っているわけじゃない。教室全体が静まり返っているわけでもない。
ただ、その声の輪の中からだけ、私がきれいに外されているようだった。




