第9話 彼女のために、も勇敢になりたい
放課後、夕焼けが校舎の端から静かに差し込み、廊下や壁をやわらかな赤に染めていた。影は細く長く引き伸ばされ、私は星奈と肩を並べて歩いている。掌はぎゅっと重なったまま、彼女の手は最初から最後まで離れなかった。
人の多い階段の角を通り過ぎるときも、まだいくつかの視線がこっそりこちらへ向けられているときも、星奈はただ少しだけ手を強く握り返した。それはまるで、言葉にしなくても伝えてくれるみたいだった。
——大丈夫、私はここにいる。一緒に歩くよ。そう囁いているような、静かな安心だった。
家に帰り、部屋の扉を閉めた瞬間、私はようやく長く息を吐き出した。まるで一日中、自分自身が宙に吊り下げられていたみたいで、やっと今になって地面に降り立ったような気がした。
机の前の椅子にもたれ、天井を見上げる。けれど胸の鼓動はまだ落ち着かない。頭の中で何度も浮かんでくるのは、昼休みのあの瞬間の光景だった。教室のざわめき、向けられる視線、ひそひそと交わされる声、そして突然投げられたあの問い。
「神崎さんってさ、佐藤さんと付き合ってるの?」
あのときの私は、何も考えられなかった。呼吸がうまくできず、指先は冷えきって、視界までぼやけていく。きっと私は、このまま崩れてしまうと思った。
そのとき、星奈が立ち上がった。まっすぐ私のところまで歩いてきて、迷いなく私の手を握り、はっきりとした声で言った。
「うん、遥が好き。何か問題ある?」
その言葉は、まるで一筋の光みたいに、教室に満ちていた沈黙と疑いを一気に切り裂いた。周りではまだひそひそ声が続いていたし、信じられないという顔をする人もいた。それでも星奈は、一歩も引かなかった。
だって怖くなかったわけじゃない。私には分かった。肩はほんの少し震えていたし、声は落ち着いていたけれど、どこか張りつめていた。誰よりも勇敢だった。
視線を落とし、自分の掌を見つめた。今は何も握っていないのに、まだ星奈の温もりが残っている気がする。そのぬくもりは皮膚を通り抜けて、胸の奥まで静かに染み込んでいく。そして……心のどこかに、小さな言葉を残していった。
——もし私だったら、できるのかな。星奈みたいに、みんなの前で怖がらずに「彼女が好き」って言えるのかな。
昔の私は、ずっと慎重に生きてきた。見つからなければそれでいい。仲間外れにされなければいい。嫌われさえしなければいい。
でも、今日初めて分かった。この想いは、ただ隠しているだけでは守れない。本当に守るっていうのは、嵐が過ぎるのを隅でじっと待つことじゃない。嵐が来たとき、その場に立って、彼女の手を握っていられることなんだ。怖くても、痛くても、それでも一緒に向き合おうと思えることなんだ。
英雄になりたいわけじゃない。ただ……星奈が振り返ったとき、そこにちゃんといる存在になりたい。
ほんの少しの勇気でもいい。試してみたい。守れる人になりたい。たとえ一歩だけでも、いる方へ近づきたい。たとえ震えながらでも立ち上がって、一番必要としているときに、その手を取ってあげたい。今日の星奈みたいに、優しく、そして確かに、隣に立っていたい。
彼女のために、も勇敢になりたい。
***
夜が降りて、部屋の中には机のスタンドライトだけが静かに灯っている。柔らかな光が壁に影を落とし、窓の外からはかすかな風の音が聞こえてくる。半分だけ開いたカーテンがゆっくり揺れて、それはまるで、誰かの優しい呼吸のようだった。
机の前に座っていた。そのとき、スマートフォンの画面がふっと明るくなる。星奈からのメッセージだった。
「明日の朝、一緒に行かない? 朝ごはんも一緒に食べようよ~」
いつものように、軽くて少しおどけた口調をしている。まるで何も起きていなかったみたいに。今日の勇気も、涙も、あの視線も、握り合った手も、全部ただの日常の一場面だったかのように。過剰に慰めることもなく、大丈夫かどうかを問いかけることもない。その自然なメッセージなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられて、思わず涙がこぼれそうになった。
私はその文字をしばらく見つめたあと、ようやくゆっくりと返信を打ち込んだ。
「うん。ありがとう。今日……本当にありがとう」
送信したあとも、指先は画面の上で止まったままだった。このまま終わらせてしまっていいのか、何度も考えてしまう。まだ胸の奥に言えない言葉が引っかかっている気がした。数秒後、また画面がふっと光る。
「ばかだなあ。お礼なんて言わなくていいのに」
その言葉を見た瞬間、指先がわずかに震えた。下唇を噛み、数秒間画面を見つめ続けて、それからやっと決心して、本当の気持ちを星奈に送る。
「……今日の勇気は、星奈がいたから」
送信ボタンを押した瞬間、心臓が「どん」と大きく鳴った。ようやく息が抜けたようでもあり、胸の奥にしまい込んでいた秘密を、彼女の手にそっと預けてしまったようでもあった。数分後、スマートフォンがもう一度震える。
「ずっとそばにいるよ。世界が何を言っても、遥は一番守りたい人だから」
その言葉を静かに見つめていると、目の奥がじんわりと熱くなった。唇の端が少しだけ上がる。その短い一文は、心の上にそっと落ちてきて、これまで抱えてきた悔しさも、怖さも、不安も、そして小さな希望も、全部まとめてやさしく包み込んでくれたみたいだった。
机の引き出しを開けて、しばらく触っていなかった日記帳を取り出す。普段はあまり書く習慣がないのに、今日はどうしてか、何かを残しておきたくなった。空白のページを一枚めくり、ペンを持って、いちばん上にタイトルを書く。
『彼女のために、私も勇敢になりたい』
ペン先が紙に触れた瞬間、頭の中に浮かんだのは、星奈が私の前に立ち、迷いなく手を握ってくれたあのときの姿だった。あの、強くて、そして優しい表情。
この想いは、ただのときめきではない。二人の間にある甘さや親しさだけでもない。それは一つの選択だった。たとえ道の途中に風のような噂が吹き抜けても、誰かの言葉がささやかれても、痛みが待っていたとしても……それでも彼女の手を握っていたい。そして、そのすべての出来事を、私たちだけの旋律へと変えていきたい。私たちにしか分からない一つの歌。やわらかくて、揺るがなくて、それでいて胸が熱くなるほど優しい歌。
ゆっくりと日記帳を閉じ、それからベッドに仰向けになった。窓の外では星が静かに瞬いていて、夜は驚くほど穏やかだった。けれど心は、それ以上に不思議なくらい落ち着いていた。
今日がどんなに苦しい一日だったとしても、最後には星奈のおかげで、安心して眠りにつくことができる。だって分かっているからだ。明日の朝、通学路で、きっと笑いながら私に手を差し出してくれる。




