閑話(3) 少年たちの決意
「なあ、最近、なんだか妙だと思わないか?」
いきなり声を潜めて言い始めたドハンに、ジョンウとヒスの二人は芋を頬張る手を止めて互いに顔を見合わせた。
「妙って、何が?」
「その芋、いらないなら俺がもらうぞ」
「なんでそうなるんだよ、これは俺のだぞ! ……って、そうじゃなくて! スハだよ、スハ! あいつ、最近妙だと思わないか?」
「スハ?」
冬が近づき、近頃は日中でも冷える日が多くなってきた。
いつもの四人で朝の薪拾いを終えたあと、落ち葉を集めて芋でも焼いて食べようということになったのだが、今ここにスハはいない。最近はこの三人で過ごすことが多くなっている。
「スハのやつ、最近なんだか付き合いが悪いっていうか」
食べかけの芋を急いで呑み込んでから、ドハンは再び口にする。それに「いや、だってそれはさ……」とジョンウとヒスは眉を下げた。
「スハんち、おばさんが亡くなってまだそんな経ってないじゃないか」
「やっぱ、家のこととか、いろいろ大変なんだろ。気持ち的にも、まだそれどころじゃないっていうかさ……」
な、と見合わせる二人に、けれどドハンは「そうじゃないんだって」と首を振った。
「違うんだよ、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……、だーっ、もう! なんつったらいいんだろうな」
「何だよ、俺にはお前が何を言いたいのかが分かんねえわ」
「右に同じく」
肩をすくめて首を傾げる二人に、ドハンはじれったく地団太を踏む。
もう、なんでこう通じないかな。妙っつったら、妙なんだって。なんだよ、気づいてんのは俺だけか?
たしかに、おばさんのユンファが亡くなって、スハの家は生活が大きく変わっただろう。ドハンたちの親もたまに手伝いに行ったりしているが、それでも、悲しみは癒えていないだろうし、暮らしもまだ落ち着かないはずだ。
でも、そういうのではない。そういうのではないのだ。
苛立ちを隠せないドハンに、ヒスが「まあ、落ち着けよ」と焼けた落ち葉を枝でかき分けた。
「ほれ、とりあえず、次食うか?」
「食う」
「食うんかい」
イライラしていても腹は減る。次の芋を頬張りながら、ドハンは再び口を尖らせた。
「いや、だからさあ、なんかスハのやつ、最近妙に忙しそうっつうか……」
「いや、だからそれは、おばさんを失くしたからだろって」
「いや、だからそうじゃなくて! なんつうか、そういうのじゃない風に忙しそうなんだって!」
二人は再び顔を見合わせる。
「……まあ、あれだ。お前が何を言いたいかはまったく分かんねえけどさ、」
「そうだな、まったく意味は分からんが、スハがどう忙しそうなのか、今日一日隠れて見てみたらいいんじゃねえか?」
「ああ、それだ!」
それは名案だなっ、と急に立ち上がったドハンに、二人がびくっと撥ねたのが見えた。だが、そんなことはお構いなしに明るく続ける。
「そうだよ、そうすれば、お前らにも俺が言いたいことが分かるはず! いやあ、なんで思いつかなかったんだ、俺。よし、そうと決まれば善は急げだな」
「お、おう、そうだな。それじゃあ、まずはスハんちに行って、影から覗いてみるか―――……て、ドハン、何してんだ?」
「何って、まずは芋を出さないと。このままだと焦げちまうじゃねえか。焦げたら食えなくなっちまうだろ」
勢いよく上げた腰を、再び勢いよく下ろし、いそいそと芋をかき出す。後ろで二人の呆れたようなため息が聞こえた気がしたが、それは多分気のせいだ。
「で、どこが妙だって?」
生垣の影から中を覗きながら、ジョンウとヒスが声を潜めた。
スハはちょうど昼ご飯の準備をしているようで、煮炊きの煙が上がる土間を忙しそうに行ったり来たりしている。おじさんのソンジェは薬房の仕事に出ているのか、不在のようだ。
「しかし、すげえな、スハのやつ。一人で昼飯の用意をしてるのか? 俺なんて、まともに竈に触ったことすらないのに」
「うちなんて、土間に入っただけで追い払われるぜ? 外で遊んできて汚れてるやつが、こんなところに来るんじゃないってな」
言い合う二人に同じように頷きながら、ドハンは動き回るスハを見つめた。
少し前から、炊事洗濯はソンジェではなく、スハがやるようになったようだ。
ドハンの家は、スハの家からだと目と鼻の先にある。家の庭から少し首を伸ばせば、スハの家がよく見えるくらいの距離だ。
だから、スハがソンジェを少しでも助けるためにそうし始めたことは知っていたし、今までのように気ままに遊ぶ余裕なんてないのも分かっている。だが、そうではなく。
「……あ、ほら! あれだよ、あれ!」
生垣の隙間から、ドハンは声を落としてそれを指差した。
「あそこに置いてるやつ。あれ、「書」だよな? スハのやつ、最近いつも「書物」を広げてるんだよ」
「はあ? 書物?」
「読んでんのか? スハが? なんで? てか、どうやって?」
「この辺りで学堂に行ってるやつなんて、大人を含めてもほとんどいないのに、どうやって読めるようになったんだ?」
「だって、見てみろよ。あれ、読んでるだろ?」
「いやいやいやいや、無い無い無い無い」
二人揃って否定の意味に手を振りながら、ジョンウとヒスも生垣の隙間から覗き込む。だが、作業がひと段落したらしいスハが今手に取って広げたものこそ、正真正銘、一冊の書物だった。
「……え、まじで読んでんの? ただ眺めてるだけじゃないか?」
「いや、そうだとしてもだ。その前に俺、書物って初めて見たかも」
「あ、俺も」
「やっぱお前らもそうか。そもそも、なんでスハがあんなもん持ってんのか、変だと思わないか?」
三人で言い合っていると、何やら書物を眺めながら土間を出てきたスハは、その書を片手で持ち直し、何かを叩きつけるように反対の手を何度も振り下ろしたり、何かを蹴るように体を捻ったり、足を振り上げたりし始めた。まるで、書物を確認しつつ体を動かす練習をしているような様子だ。
「何してんだ、あれ」
「さあ?」
「だろ、やっぱ妙だろ? スハのやつ、最近いつもあんな調子でさ……あ、やべ! 隠れろ!」
仕事を終えて戻ってきたソンジェの姿が見え、ドハンたちは慌てて身を低くした。
痩せた生垣は穴だらけで隠れるのには適していないが、すぐ目の前にはスハの家の柿の木がある。ちょうどその影が、三人の姿を上手い具合に隠してくれていた。
ドハンたちが見ている前でソンジェと揃って昼飯を食べ始めたスハは「俺、ちょっと出かけてくる」と言って早々に席を立ち、何やら握り飯を用意し始めた。そして、「暗くなる前には帰れよ」と声をかけるソンジェに手を振り、先程の書物を懐に突っ込んで、あっという間に出かけてしまう。
「まずい、追いかけろ!」
誰からともなく発したそれを契機に、三人も急いでその場を離れる。―――と、そこで、誰かの腹の虫が鳴った。
「ほらな、ちゃんと芋を拾っておいてよかっただろ?」
ドハンはしたり顔で二人の前に芋を出し、再びそれを腹に収めながらスハのあとを追った。
そしてスハが向かったのは、なせがヨンギルの家。
「なんでおじさんの家?」
首を傾げつつ、再び物陰を探して身を低くする。
「―――まあったく、何度言ったら分かるんだ。ここは埃が積もりやすいから、こうして拭けといつも言ってるだろう」
「そんなに文句言うなら、自分ですればいいだろ」
「お、いいのか? 私が自分でやるということは、お前を破門にするということだが。そうしても構わんなら、自分でやろう」
「ぐ……、この……っ、また人の足元を見て……! 分かったよ! やればいいんだろ、やれば!」
「ふん、初めから素直にそうせんか」
覗いた庭先から、そんなやり取りが聞こえてくる。
見たところ、ヨンギルの家をなぜか掃除するスハに対し、小姑にようにケチをつけるヨンギルと、これまたなぜかその言うことを素直に聞くスハという図が広がっているようだ。
いや、素直にと言うと語弊があるが、とにかくなぜかスハは逆らうこともせずに言われた通りに手を動かしている。
これは一体どういうことだろう。
「……なあ、もしかして、あそこで今おじさんが食べてる握り飯、さっきスハが用意してたものじゃないか?」
「え、てことはスハのやつ、おじさんにあげるために用意してたのか? しかも、あんな掃除なんかもしたりして。なんで?」
「さあ?」
三人で首を捻る前で、スハは掃除だけでなく、ヨンギルの服を洗って干したり、酒瓶などで荒れた部屋の片付けをしたり、庭で煩くしている鶏の世話をしたりと、あちこち駆け回っている。そして、その合間に先程の書物を広げては、ヨンギルにそれが見つかって檄を飛ばされ……を繰り返している。
あいつ、ほんとに何やってんだ?
なんだかいつ見ても妙に忙しそうなのが気になって言い出したことだったが、これはドハンにとってもまったくの想定外だ。
「―――てかさあ、師匠」
思っていたところで、スハが言うのが聞こえた。
師匠―――? と、聞こえてきたそれに、ドハンたちは三人揃ってまた顔を見合せる。
「いつになったら剣術教えてくれるわけ? いや、もうこの際剣術じゃなくてもいいから、いい加減ただの雑用以外のことを教えてほしいだけど」
「たわけ、まずは雑用を完璧にこなせるようになってからだと言うておろうが。お前は何も分かっとらんな。雑用を舐める者に、それ以上のことができるとは思えん」
「別に舐めてるわけじゃないんだけどさ。このままじゃ俺、全然強くなれないじゃないか」
剣術? 強くなる? 一体何の話をしてるんだ?
ドハンは、他の二人とともに会話の成り行きを見守った。
「これを見るのもやめろって言うしさ」
「当たり前だ。暇さえあれば、そんなものばかり眺めおって。その書は捨てておけと言わなかったか」
「俺は、早く強くなって都城に行きたいんだ。あいつらのいるところに、少しでも早く行くために」
あいつら? 誰の話だ? それに、都城って……。
「初めに言ったはずだ。今のお前にできることなど、何もない。せいぜいが、ただ鳴いて喚くだけの雛だとな。焦ったところで何にもならん」
「それは分かってるけど! 母さんがなんであんな死に方をしたのか、あいつらに殺されなきゃならなかったのか、知りたいと思うのは当然だろ」
聞こえた会話に、今度こそドハンは愕然とした。
おばさんは野盗に殺されたって聞いてたけど、そうじゃないのか……?
「……なあ、今のって……」
衝撃を受けたのはドハンだけではなかったようだ。ジョンウもヒスも、隣で言葉を失っている。
思えば、初めは何も手につかない様子で悲しみに沈んでいるようだったスハが、いつからかその顔つきが変わった。何か目標を見つけたように、その目に光が戻ったのだ。どころか、時にこちらが息を呑むほどに、強い目をするようになった。
スハの家の暮らしが落ち着くまでは、と自分たちが腫れ物に触るようにしていた間に、スハは一人で前を向いて、自分の目標のために一人で奮闘していたようだ。
しかも、自分たちには何の相談もなく、そのうち都城に行ってしまうつもりでいるらしい。
なんだよ、スハのやつ。
「水臭いじゃねえか」
思った声が、口から勝手にもれて自分の耳を通して聞こえたのかと思った。
だが横を見ると、ジョンウとヒスも同じように悔しそうな顔をしている。
「俺たちに内緒で、勝手に準備して、勝手に都城に行くつもりでいるなんて」
「しかも、剣術とか強くなるとか、事情はよく分かんねえけど、一人で行くには絶対危険な道に進もうとしてるってことだろ」
「俺たちに何の相談もなく、そんな大事なこと決めてさ。あいつは、俺たちのこと一体何だと思ってんだ」
「だよな。それに、あいつ一人だけで強くなろうなんて、俺たちがそれを許すと思うなよ」
ふんすっ、と荒い鼻息をついて、ドハンは再び二人と顔を見合わせた。そして、にやりと笑い、互いに頷きあう。
「それでなんでおじさんに教わろうと思ったのかは分かんねえけど、スハがやろうとしていることなら、俺たちだって一緒にやってやるぜ」
一人だけ抜けがけなんて、絶対許さねえからな。
そして、ドハンはジョンウ、ヒスとともに、隠れていた物陰から一斉に飛び出していった。




