閑話(2) 小さな女官見習い
ヒョリとセヨン、二人の出会いのお話です。
終わりが見えない程長く続く、荘厳で大きな建物の数々。
四季折々にその姿を美しく変える、大小多くの庭園。
そして、その中を颯爽と行き交う、眩いばかりの官吏や女官たち。
ここは、蔡景一の大国と言われる紫微国―――その中心に位置する街、都城の最奥にある、王宮。
国の政がなされる中枢であるとともに、この国を治める大王様の居城であり、それに連なる方々が住まう場所でもある。
その中を、まだ年端もいかない幼い少女たちが、先導する女官の後ろに付き従い、ぞろぞろと進んでいた。
「きゃあっ、ねえ、見てあれ……! あんな大きな建物、外では見たことがないわ」
「あ、また庭園。お花もたくさんで、なんて美しいのかしら」
「あそこを歩いてる方々なんて、同じ人間だと思えないくらい見目麗しいと思わない……!?」
並んで歩く少女たちは、先程からひそひそと興奮した様子で言い合っている。
無理もない。いくら、礼儀作法や王宮で仕える心得など、数週間の厳しい指導を受けたあととはいえ、初めて足を踏み入れるこの場所に興奮しない子どもはいないのだ。
でも、そんなに声を大きくしていたら、そろそろあの女官に睨まれそうだけど。
心の中で思いながら、けれどそれを表に出すことはせず、ヒョリはただ一人、黙々と集団の中で歩を進め続けていた。
大王様のお膝元である都城に生まれ、都城に育ち、先日、ようやく八歳になったところ。
体は歳相応の形をしているが、周りからは、年齢にそぐわず少し達観しているところがあると言われることが多い。
それがどういう意味で言われているのかは置いておいて、ヒョリ自身はその言葉を好意的に受け止めている。そう言われるということは、自分は周りより大人びているということだからだ。
ヒョリは長子で、家には幼い弟妹たちがいる。両親や弟妹たち、家族の暮らしを少しでも楽なものにするために、八歳という幼い身ながら、両親の元を離れて女官見習いを志すことにした。
この国には、ヒョリよりも少し幼い王女様が一人いる。まだ顔を見かけたことすらないが、将来的にはその王女様を支える立派な女官になりたいと思っているし、そうなるためにここへ来た。
「ごほんっ」
先導役の女官がちらと後ろを振り返り、一喝するように大きく咳払いをした。少女たちのひそひそ声がぴたりと止む。
ほら、言わんこっちゃない。
女官に睨まれた少女たちは、気が気ではないだろう。なんせ、それがここでの暮らしやすさを左右するかもしれないのだ。
足を止めて後ろを振り返っていた女官は、睨みを利かせるように彼女たちをぐるりと見回したあと、やがて満足そうに頷き、再び歩き始めた。今度は、少女たちも静かにそのあとに続いていく。
荘厳な建物や美しい庭園、颯爽と歩く大人たちの姿に目を奪われても、それを表に出すのは賢いやり方ではない。女官見習いたる者、常に己を律し、分を弁えている必要がある。
自分の感情を安易に表に出すなんて、思慮の足りない行動だわ。私はそんな子どもではないの。
気を抜けば初めて見る王宮内のいろいろへ向きそうになる目を、ヒョリはそんな意思の力で抑え続けてみせた。
それから始まった王宮での生活は、順調そのものだった。
指導役の女官に付いて仕事を覚える中、少しずつ一人で任されることも増えていき、それが楽しい。
見習いとはいえ、一度王宮に上がったからには、大人の女官同様、王宮内で寝起きをすることになる。まだ幼くとも、家族の慶弔以外で外に出ることは基本的に許されない。
見習いの中には家族を恋しがって泣く者も少なからずいたが、ヒョリにそれは無縁だった。
自分の頑張りが家族の暮らしを支えているのだと思えば、たいていのことは我慢できる。今はそんなことより、将来王女様を支える女官になれるよう、研鑽を重ねることの方が大事なのだ。
私は、少し寂しいくらいで泣くような幼い子どもではないのだから。
そう言い聞かせつつ、日々の仕事をこなす。
そんな折、指導役ではない別の女官からお使いを頼まれた。
「ごめんなさいね、今こっちの手が離せなくて、これを急ぎであそこの部署まで届けてくれないかしら」
言われたのは、普段仕事をしている場所からは少し離れた辺り。だが、女官見習いが出入りできるような場所の王宮内の地図は、だいたい頭に入っている。ああ、あの辺りか―――と言われた場所を思い浮かべ、「分かりました」とヒョリはその頼まれごとを引き受けた。
たしか、こちらの方だったわよね。
頭の中に地図を思い浮かべながら、自分が今いる場所を確認しつつ、目的の場所を目指して進む。
……あれ、違ったかしら?
頼まれた場所は、普段あまり行かない場所だ。急ぎでと言われたから、節度を保って、走らない程度の早足でここまで来たが、どこかで道を間違えたかもしれない。少し戻り、再び地図を思い浮かべて、前へ進み直す。―――が、またもや思っているところとは別のところへ出てしまった。
あれ、おかしいな……。
ほんの少しだけ、焦りと不安が顔を覗かせかけたところで―――。
「どうしたの?」
ふいに、後ろから声をかけられた。
はっと振り返ると、そこにいたのは一人の少女。
「もしかして、迷子になっちゃったの?」
首を傾げる少女は、ヒョリと同じ女官見習いの服を着ている。けれど、その見た目はヒョリよりも随分幼い。
こんな小さな子が見習いの中にいただろうかと考えるが、いくら物覚えがいいヒョリとて、見習いの顔をすべて覚えているわけではない。知らない子がいたとしても当然だ。
「……あ、ええと、ちょっと道が分からなくなってしまって」
「どこに行きたいの?」
「ここなんだけど……」
「ああ、それなら、私分かるわ。ついて来て! 連れていってあげる!」
小さな少女は元気よく言うと、こちらの返事も待たずに歩いていく。立ち止まったままのヒョリを振り返り「何してるの? 行くよー!」と再び元気よく手を振ってくる。
……まあ、知っていると言うのなら、ついて行った方がいいか。
自分より幼い少女を頼りにしてしまうことがなんとも不甲斐ないが、ヒョリは少女について行くことにした。
「―――ねえ、ここって、さっきも通ったよね?」
辺りを見回しながら、先を行く少女に声をかけると、少女はなぜか半べそをかいたような顔でヒョリを振り返った。
「う、ううん、多分、この道で合ってるのよ。でも、ええと……、ちょっと待ってね」
泣きそうなのを堪えるように無理に浮かべた笑顔で言う少女に、ヒョリはぴたりと足を止めた。
駄目だ。薄々気付いてはいたが、これは完全に迷子になっている。これ以上動き回ると、余計に深みに嵌る。
「ね、ねえ、道が分からないなら、無理に動き回らない方が―――」
「ううん、大丈夫! 今度は絶対間違えないから、ついてきて」
少女は言うが、また歩き始めたところで、ぽつり、と顔に滴が当たった。
「あ、雨……」
ぽつ、ぽつ、と降り出した雨は、やがてざあっと勢いを増していく。ヒョリは少女の手を引いて、急いで近くの建物の中に入った。
「ひとまず、ここで雨が止むのを待とう」
普段あまり使われていない場所なのか、何も無く、がらんとしている。当然明かりも無いため、ひどく薄暗い。
少女の衣服についた分も雨粒を払い落とし、ヒョリは少女と並んでその場に腰を下ろした。
明かり取り用の格子窓から見える雨の勢いは、益々激しさを増している。元々夕方近くだったこともあり、日が落ちて外はすっかり暗くなっている。
「ごめんなさい……、私のせいで……」
「ううん、いいの。あなたは案内してくれようとしていただけでしょ? 道が分からなかったのは、私も同じだから」
心細い気持ちもあるのだろう、大きな瞳に涙を浮かべて謝る少女に、ヒョリもなんとか笑みを返す。
正直、心細いのは自分も同じだが、だからと言って泣くわけにはいかない。自分の方がお姉さんなのだ。しっかりしなければ。
そういえば、こんな雨の激しい日は、母さんが温かいお茶と掛布を用意してくれたっけ。弟や妹たちと一緒に包まってると、雷が鳴っても全然怖くなかったな。
ふと、そんなことを思った。が、急にじんわりと目頭が熱くなるのを感じ、慌てて頭を振る。
そうだ……っ、今はそんなことより、お使いよ! 頼まれたのは随分前なのに、雨まで降ってきてしまって、これじゃあ―――。
と、思ったところで、ヒョリは動きを止めた。
あ……れ……?
自分の周りをあちこち探して、けれど見つからないそれに、徐々に顔面が蒼白になっていく。
「どうしたの……?」
「無い……」
「無いって、何が?」
「頼まれたものよ……。これを届けてって、頼まれたものが無いの……」
どこかで落としたのだろうか。それなら早く探さなければ。だが、もし見つかったとしても、この雨では、もう……。
じわ。
それまでなんとか踏みとどまっていたものが崩れ、一気に視界がぼやけた。堪えに堪えていた涙が、押さえを失ったようにじわじわと浮いてくる。
情けない。こんなところで―――。
拭うのはそれを認めているようで必死に耐えるが、ついに、ぽろっとこぼれ落ちてしまう。
異変を察した少女が、慌てたように自身の目元を拭い、急いで立ち上がった。
「大丈夫よ、きっと見つかるわ! 私も手伝うから!」
ああ、ほんとに。これでは女官見習い失格だわ。
情けなくて、腹立たしくて、やり切れない。
だが、そう思う程に涙が溢れて、止まらなくなる。もはや、しゃくり上げる程の勢いだ。
何が情けないって、心細くて今にも泣きそうにしていた自分よりも遥かに小さな子の前で先に泣き、あまつさえ励まされていることだ。
これでは、自分の感情を安易に表に出すような思慮の足りない幼子以下ではないか。自分は子どもではないと思っていたのに、周りの者たちより尚ひどい。
そして、唐突に気付く。今まで「大人びている」と言われることを喜んでいたが、本当は、それを喜ぶこと自体が子どもだったのだということを。
私は今まで、なんて浅はかだったの。
それに気付いたら、なんだか急に肩の力が抜けた。今まで必死にしがみついていたものが、途端にどうでもいいもののように思えてくる。
ぐきゅうううっ。
「え、何!? 何の音……!?」
「……ごめん、私」
気が抜けたら、お腹が空いた。涙と鼻水を垂らしながら手を上げたヒョリに、少女は焦ったように「あ、そうだ……!」と、懐をごそごそと漁り始めた。そして、はい、と何かを渡される。
「これ、お腹が空いたら食べようと思って持ってたの。雨でちょっと濡れちゃったけど、二つあるから、一つあげる。一緒に食べよ」
出てきたのは、なんと饅頭。
こんなものを持って歩いていたのか、と少々唖然としつつ、けれど、ありがとう、と素直に受け取る。
二人で食べる饅頭は、とてもおいしかった。饅頭なんかで喜ぶなんて幼子のようだ、と今までは思っていたが、誰が食べたって饅頭は饅頭で、ほろっと甘くほどける餡がおいしいのは、大人も子どもも変わらない。
お腹が満たされると、少し落ち着いてきた。
少し前より静かな気持ちで、止む気配のない雨を見上げる。
「……頼まれたのに、お使い、ちゃんと行けなかったな」
「大丈夫よ。雨が止んだら、あとでまた一緒に探しましょう?」
「そうね、雨が止んだら」
格子窓の向こうに響く雨音を聞きながら、二人でぽつぽつと話し続ける。
ヒョリが頷いたところで、「雨、止むかしら……」と少女が少し不安そうに呟いた。
「止むよ。だって、止まない雨はないって言うでしょ?」
「もう外もあんなに暗くなって、ちゃんと帰れると思う?」
「大丈夫。道が分からなくても、きっと誰かが見つけてくれるわ。だってここは、広くても王宮の中なんだから」
話しているうちに、いつの間にか瞼が重くなって、二人して肩を寄せ合って眠っていた。
そのあとどうやって帰ったのかは、あまり覚えていない。
誰かが来てくれて、自分の寝起きする居室まで連れてきてくれたような気もするし、自分で帰ったような気もする。
とにかく、目を覚ますとヒョリは自身の布団の中にいて、指導役の女官からは強めの注意と少しの心配を受け、またいつもの日常が始まった。
女官見習いの中にあの時の少女を探したが、どうしてか見つけることができず、名前だけでも聞いておけばよかった、と少しだけ後悔した。
あの時、あの子がいたから、ヒョリは本当の意味で少し「お姉さん」になれた気がする。次に会えた時には「ありがとう」と伝えたかったのだ。
そして、それから数日後。
「ヒョリ、あなたをお呼びだそうよ。今すぐ向かいなさい」
そう告げられ、訳も分からないまま、ヒョリは王宮のある一角に向かった。
案内されるままに進み、十分な注意を受けたあと、首を垂れた形のまま中に入る。
なんでこんなところに、私が―――……。
思いつつ、引き攣りそうになる喉になんとか力を込め、なるべく震えないように気をつけながら声を絞り出す。
「お呼びとうかがい、まかり越しました。お初にお目にかかります、ヒョリと申します。―――王女様に、ご挨拶を」
「来てくれてありがとう。会えて嬉しいわ。顔を上げてちょうだい」
「は―――……」
返事をして、言われた通り顔を上げようとしたところで、ふいに違和感を覚えた。
この声、聞き覚えがある。最近聞いた気がするが、一体どこで―――。
そして、恐る恐る顔を上げて、ヒョリは何も言葉にならない程、絶句した。
「あ、あなた……っ!」
「ふふ、お久しぶりね。元気だった?」
そこにいたのは、あの時の少女。けれど、その姿は女官見習いなどではなく、正真正銘「王女」のものだ。
「はじめまして、私は王女セヨン。これからどうぞよろしくね、ヒョリ」
にっこりと笑う少女に、ヒョリはただただ目を白黒させる。
とりあえず、あの日の女官見習いの格好について、今後のためにも子細を問いたださねばと思ったヒョリだった。




