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第46話 醒


 夢を、見ている―――。

 いつのものだったか、とても恋しく、けれど悲しい、懐かしい夢―――。 



 ◇   ◇   ◇



 ――ヒャ―――様、―――ノ――様、おめでとうございます!


 喜びに弾むのは、かつての自分の声。

 それに応えるように柔らかな瞳が振り返り、これ以上ない程眩しく微笑む。


 館も人も、すべてが寿(ことほ)ぎに彩られていた()き日。

 それは、幼い頃からそばに仕え、姉妹のように、友のように育った、大切な誰かに贈った最高の祝福だ。


 ずっとそれが続いてほしいと、どんなに願っていたか。

 けれど、それは叶わなかった。


 突如その幸せが壊され、理不尽にすべてが奪われて、大切なものを失ってしまった日。

 それでもなお、あのお方は強く生きようとしていた。それを、自分は一番そばでずっと見てきた。

 なのに―――。


  ―――ユンファ、この子を頼みます。


 力強い眼差しで、まっすぐに自分を見つめて。


 ―――あなたには、なんとしてもこの子を無事に逃がしてもらいたい。あの方の子を、ここで失うわけにはいかないの。なんとしても守らなければ。


 本当は、そうしたくなどなかったはずだ。あのお方が、お腹のお子に会えるのをどれほど楽しみにしていたか、生まれたばかりのそのお子をどれだけ愛していたか、それを知っていたから。


 だから自分は、託されたそのお子を、なんとしても守らねばと思った。いつか、あの方の元にお返しできるように、自分の命に代えても必ずお守りせねばと誓った。

 それなのに―――。


 恐怖が、追いかけてくる。後ろから少しずつ、だが着実に迫ってくる。


 必ず守らねば。自分の命に替えても、あの方の―――()()()()()お子を、なんとしても守り抜かなければ。


 だから、そこに隠した。抱えて逃げるより、自分が囮になって敵の目を逸らす方が、お子を守れる可能性が格段に高いと思ったから。


  ―――ここにいれば、お母上様があとできっと見つけてくださいます。それまで、ここでしばらく待っていてくださいね。


 そう言い置いて、自分は再び闇の中に駆け出した。赤子に模したものを腕の中に抱え込み、決死の覚悟で走り続けた。


 少しでもそこから離れるために。迫りくる恐怖からお子を遠ざけ、なんとしても守るために。


 けれど、それさえも果たせないまま―――。


 背を斬られ、肉を裂き、骨を断つ灼熱の炎が、一気に全身に燃え広がる。

 今まさに、すぐそこまで迫っている死への恐怖。

 それを、ただ淡々と無感動に見下ろす冷たい瞳。


 その目は、自分の死を―――、生まれたばかりの赤子の死を、望んでいる。


 あの目は、誰のものだ。そして、それを見ているこれは、誰の目だ。


 託されたものは。それを託した人は。


 それは、一体―――。




 ◇   ◇   ◇




 視界が揺れる。

 意識が揺れる。


 ぐわんぐわん、と激しく響く耳鳴りで吐き気がする。


 体のあちこちに走る裂傷や打ち身が、じくじくと嫌な熱を放っているのが分かる。だが、痛みはもうあまり感じない。縛り上げられた腕の感覚も、とうに無くなっている。


 体は縛られ、心も疲れ果て、抗う方法は一つも残っていない。

 度重なる恐怖と苦痛から逃れるためにできることは、もはや舌を噛んで死ぬことくらいだ。しかし、猿ぐつわをされているせいでそれもできない。


 それも見越して、これを噛まされているのか―――と、今さらながらぼんやりとした頭で思い至る。


 ばしゃ―――!


 頭から冷たい水をかけられ、朦朧としていた意識が少しずつはっきりしてくる。

 力の入らない首をのろのろともたげ、ユンファは辺りにゆっくりと視線を巡らせた。


「―――まこと、このような辺境に、ようも今まで隠れておったものだ」


 視線を巡らせた先で、声が聞こえた。僅かに笑みを孕んだ声には、嘲笑の響きを感じる。


 その声を聞いた瞬間、どく……っ、と心臓が跳ねた。そして、縛られて元々動かないはずの体がひくり、と条件反射的に固まる。


 おもむろに伸びた手が顎を掴み、ぐいっと引き寄せられた。

 そこに認めた顔に、ユンファは恐怖に顔を引き攣らせた。だらだらと変な汗があふれ、首を絞められているように上手く息が吸えない。


 私は、この人を、()()()()()―――。


 思い出すものがある。


 腕の中の赤子諸共、(ほふ)ろうと徐々に迫ってくる重く鋭い刃。

 自分の死を望む、あの凍てつくような冷たい目。


「私を、覚えているか」


 その、僅かに笑みを孕んだ声と、笑っているようで笑っていない、氷の眼差し。


 目の前にそれを見た瞬間、ユンファの中で何かが音を立てて弾けた。


 大きく膨れ上がったものが勢いよく弾け、その中に押し込められていたものが洪水のように一気にあふれ出す。激しい流れを伴ったそれは、逆らうことのできない巨大な奔流のように、今あるものをすべて押し流し、凄まじい勢いで塗り替えていく。


「―――――………っ!」


 そして、唐突に理解した。


 少し前まで見ていた、あの夢。


 誰かの記憶だと思っていた夢は、自分の中にずっと眠っていたものだったということを。

 知らない記憶だと思っていた夢は、決して忘れてはならない願いだったということを。


 知らず知らずのうちに涙が溢れ、見開いた瞳から頬を伝って次々と落ちていく。

 それを理解した途端、次に襲ってきたのは、激しい自責の念。


 大事なことをすべて忘れて、私は今まで、一体なんということを―――……。


 約束も果たせず、自分への誓いも破って。

 これ程の長い時を無為(むい)に過ごし、いくら悔やんでも、悔やみきれない。

 謝っても、謝りきれない―――……。


 たまらず、ぐっと閉じた瞼の裏に、一つの姿が浮かんだ。


 母さん、と明るく笑いながら自分を呼ぶ声。今まで、本当の親子のように過ごしてきた日々。


 それを守ってきたのは自分ではない。ずっと、守られていたのは自分の方だった。


 あの子こそが、託された大切な命。何にも代えがたい、大切な存在。


 スハ―――、あなたは、本当は―――……。


 一瞬にして自分が塗り替えられる程の大きな衝撃をすべて呑み込み、ユンファはようやく、大きく息を吐き出す。


 思い出した。すべて。

 自分は一体誰なのか。なぜ今、こうしてここにいるのか。

 そして、自分のすべてを懸けて、これから成すべきことも。


 ユンファはゆっくりと顔を上げ、目の前にある二つの顔を睨んだ。そのまま、顎を掴む手を、まるで虫でも払うように首を振って退()ける。


 覚えているかという先程の言葉に、早く答えを返さねばならない。


「……ええ、覚えていますとも。王后様、チャン将軍」


 今、思い出しました。あなた方のことも。あなた方が、あの夜、何をしたのかも―――。


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