第45話 苛
先に飛び出していったスハを追いかけて、ここまで来てみれば……。
ヨンギルはスハを押さえつけたまま、背後の小屋、その前に立つ複数の影に鋭い視線を向けた。
こんな人気のないところに手練れの者が三人……、いや、他にも何人かいるな……。
辺りに感じる気配をさっと確認し、ヨンギルは内心で盛大に舌打ちをする。
まさかとは思っていたが、本当にギテのやつが絡んでいたとは―――……。
トボクが斬られ、ユンファが得体の知れない黒い連中に連れ去られたと聞いた時から、嫌な予感はしていた。
連携の取れた様子で計画的にユンファを連れ去ったところを見ると、その者たちが金品を狙った強盗の類ではなく、何らかの目的を持ってユンファに接触したことは明白であった。そして、たまたま居合わせたトボクを容赦なく斬り捨てている様子から見ても、並大抵の連中でないことは容易に想像できる。
だがしかし、そこにギテが絡んでくるとなると……。
ヨンギルは再び、小屋の前に立つ影に険しい視線を向ける。
小屋の戸口に一番近い場所に立っている影。その者の右頬にほくろがあるのが、この草むらの中からでもはっきりと確認できる。その顔は、つい先日ヨンギル自身が見かけたものだ。
守るべき対象の所在くらい把握しておけと言った自分の言葉に、合図を受けて出て行った者の顔。
あの時に見かけた、ギテの配下の者の顔が、今そこにある。
ヨンギルは、ぎりっ……、と奥歯を噛み締めた。
ユンファを攫った者がただの身代金目的の単純な輩であれば、すぐにでもこの草むらから飛び出して救い出している。だが、そうできないのは、そこにギテが絡んでいるからに他ならない。
ギテは、この国の大将軍だ。
武力はさることながら、その立場も地位も、臣下の中で右に出る者はいない。
そのギテを動かせる人間は限られている。それはつまり、十中八九、その背後にはとんでもないものがいるということだ。
だが、急がねばユンファが危うくなる……。このままでは、本当に命さえどうなるか―――。
ぐっと眉間の皺が一際深くなったところで、突如、どんっ、と強く胸を叩かれた。続いて、何度も同じように胸を叩いてくるものがある。
そこでようやく、ヨンギルはスハを木に押さえ付けたままであったことを思い出した。
決して大きな声を上げたり、いきなり飛び出していったりしないよう、目で睨みつけてから、ゆっくりと戒めを解く。
「………ぐっ……こほっ……ごほっ」
急に大量の空気が肺に入ったことにより大きく咽そうになるのをなんとか堪え、何度か肩で呼吸を繰り返したあと、涙の浮いた瞳でスハがこちらを見た。
「……お、おじさん……」
「見つけたらまずは知らせろと言わなかったか」
「……ごめん……なさい……」
「それが守れないなら何もするな、とも言ったはずだ」
「………っ」
「お前は、事の重大さが分かっているのか。あのまま飛び出していれば、母を救うどころか、お前こそがあの者たちにその場で斬り伏せられていたのだぞ!」
ヨンギルは小声で、だが容赦ない叱責の言葉をスハに浴びせる。それだけ、危ないところだったということだ。
スハは再び「……ごめんなさい……」と小さく謝り、涙の滲んだ目を強く拭った。
今はそう言ったが、正直、スハの気持ちも分からなくはない。
母が連れ去られたのだ。大人だってそうなのだから、まだ一三歳の少年が余裕を失くすのは当たり前のことだ。
とはいえ、それとこれとは話は別。
己の身を易々と危険に晒す者に、他の誰かが救えるわけがない。
それはスハ自身も分かっているのだろう。ぐっと俯いて、何かを堪えるように唇を強く噛み締めている。
だがすぐに、スハは伸ばした手でヨンギルを掴み、「ねえ、おじさん……、」と必死の瞳で見上げてきた。
「おじさん、本当はすごく強いんだろ……? あんな連中、本当はすぐに倒せるんじゃないのか……?」
「スハ、何を―――」
スハの両手が、ヨンギルの胸の合わせ目を掴む。
ぐ……っ、と強い力で掴んでくるスハは、縋るような目でヨンギルを見上げる。
「ただの呑んだくれだと思ってたけど、本当は違うんだよな? だって、この前俺とヒョリを助けてくれたじゃないか。本当はあんな奴ら、簡単に倒せるんだろ?」
「スハ、それは―――」
「だったら、母さんを助けてよ……! 今助けなかったら、本当にどうなっちゃうか分からない……。ねえ、お願いだから、母さんを助けて……っ!」
痛切な程のスハの願いに、ヨンギルはだが手を握りしめた。
それができるなら、今すぐにでもそうしている。だが、あの連中を動かしているのはそう簡単に対せる相手ではないのだ。
奴らの狙いも分からんのに、のこのこと出て行くことはできん……!
「おじさん……!」
もはや両手でヨンギルの胸元を掴んで強く揺すってくるスハに、それでもヨンギルは何も応えることができない。
スハの願いは痛い程分かっている。だが、そうすることは、ここにいるスハ自身をも危険に晒すことになるのだ。その橋を渡ることは、やはりできない。
「スハよ……、」
どうするのが最善か急いで考えを巡らせていたところで、ふいに、ヨンギルの耳が何かを捉えた。反射的に体が動き、スハの口を押えて、自身も身を低くする。
誰かが来る―――。
闇の向こうから、数人の足音がこちらに向かってやって来るのが聞こえる。
足音の様子から、一人は恐らくギテだと思われた。ギテに続くいくつかの足音は、その配下の者達だろう。だが。
ヨンギルの額に、じっとりとした嫌な汗が浮く。
やってくる足音の中に、一つ、異質なものがある。
他の足音のように訓練された者の音でも、誰かに付き従っているような者の音でもない。
我こそが主であると他に主張しているような、その高い矜持と自負が感じられる足音だ。
この、足音は―――。
その足音がもう少しこちらに近付けば、月明かりの元にその正体も明らかになる。ヨンギルはスハを押さえたまま、息を潜めてその瞬間を見守った。
「―――――!」
そして、そこに現れた姿を確認し、思わずぐっと双眸を引き絞る。その顔が、隠しきれない苦渋に一瞬で染まる。
やはり、あなたが―――。
ギテの存在を感じた時点で、確信に近い予想はしていた。この国の大将軍であるギテを動かせる人間は限られているのだ。今この地に、そのうちの一人がいることは以前より分かっていたことでもある。
だが、いざこうして実際に目の前に現れると、その事実を嫌でも突き付けられる。
現れたのは、大王の正室、王后チョンミョン―――。
それは、この国で唯一の頂にいる女人―――。
なぜチョンミョンがこんなところに現れたのかは分からない。だが、これで一層、ユンファに手を出せなくなった。
ヨンギルは、身を低くした草むらの中で、これ以上ない苛立ちに舌打ちが出そうになるのを、必死に堪えていた。




