第47話 守
一三年前の、あの日―――。
その野盗が襲撃してきたのは、ユンファが仕える主が産気づいた夜のことだった。
出産を間近に控え、安産祈願のために訪れた寺でのこと。限られた者でその出産に対応し、主がなんとか無事に男子を産んだ直後、寺に野盗が押し入った。
無事に出産を終えて安堵の時を過ごしたのも束の間、ユンファは主から生まれたばかりのお子を託され、命からがら夜の中を逃げることになった。
その途中で、そこにいるはずのないギテを見かけたのだ。そして、ギテこそが寺に野盗を差し向けたのだという恐るべき事実を知る。
それを命じたのは、さらにその背後にいた、王后であるチョンミョン。
すべては、ユンファの主と、生まれたばかりのお子を、亡き者にするために―――。
ユンファはお子を抱いて必死に逃げた。だが結局、ギテの剣に捕まり、崖から落ちて記憶を失ってしまった。
一三年前のあの夜、チョンミョン、ギテの二人によって、ユンファの主は生まれたばかりのお子を失うことになり、お子の方は、生まれたばかりで命の危機に瀕しただけでなく、本当の母を知らぬまま今日までを育つことになった。
あの夜がなければ、二人の間にはまったく違った形の今日があっただろう。
あの夜の襲撃がなければ、あの方とお子―――スハが、こんな形で生き別れになることも、なかったはずだ。
◇ ◇ ◇
ユンファは、目の前の二人を静かに睨みつけた。
ここに連れてこられてからのことを考えると、自分が長年記憶を失っていたことを彼らは知らないようだ。赤子を抱えて逃げる背を斬られ、崖の下に勢いよく流れる水の中に落ちたその時から、まったく変わらずの姿でここにいると思っている。
それならば、こちらには好都合だ。
ユンファは口元を緩ませ、渾身の力を込めて睨み上げながら、目の前の者たちを嘲るように笑った。
「王后様自らこのような場にお出ましになるなど、遠い昔に王宮を離れた私に、今さら何用にございましょうか」
「ふん、そのようにほざくところを見ると、口だけは達者なようだな。だが、どうせそなたを見逃すつもりはない。下手な抵抗をしたところで無駄なことだ。―――答えよ、あの時の赤子はどこだ」
「赤子など、何の話にございますか?」
「はっ、何の話だなどと、惚けたことをぬかす。そなたが抱えて逃げた赤子のことだ。私はその赤子に用がある」
こちらを見下ろして言うチョンミョンに、ユンファはふっと噴き出した。堪え切れないという風に、噴き出した声は徐々に大きくなり、そのまま腹を折って笑い続ける。
ひとしきり笑ったあと、「これは異なことを……」とユンファは再びチョンミョンを見上げた。
「お探しのお子は、あの時お亡くなりになったではないですか。王后様がチャン将軍に命じて、亡き者にされたのでしょう?」
そして、口元は嘲りに歪めたまま、今度はギテを刺すように睨む。
「あの時、チャン将軍が討とうとしていたのは、寺を襲った野盗ではなく、あのお方と、生まれたばかりのお子でした。寺を襲った野盗すら、あの方々を亡き者にするための策だった。そうとも知らず、私は……、私たちは……っ!」
込み上げるものを飲み下し、目の前の者たちを呪うように、怨嗟の言葉を吐く。
「崖の上に追い込まれ、そのまま勢いよく流れる濁流の中に呑まれて、生まれたばかりの赤子が生きていられるわけがありません。あの方のお子は、そのままあそこで、お亡くなりになりました。……生まれたばかりで命を奪われ、どれ程口惜しかったことでしょう。どれ程、悔しかったことでしょう……! それなのに、尊い命を奪っておいて、あなた方は今も、のうのうと生きている―――!」
あの時のことを思えば、今も少し身が竦む。けれど、はったりでもなんでも、押し通してみせねばならない。自分には、絶対に守らなければならないものがあるのだ。
託されたあの方のお子―――スハは、今も生きている。だがそれを知られれば、あの子が危うくなるのだ。
たとえ身を滅ぼすことになろうとも、スハを守るために、自分が為すべきことを全力で果たす。
怒りか、憎しみか、何なのか、涙が目を焼き、熱くこぼれていく。それでもユンファは目の前の者たちを睨み上げたまま、冴え冴えと笑った。
「お子を抱えた私の背を斬り、崖から落ちる私たちを冷たく見下ろすチャン将軍の目、決して忘れてはおりません。それもすべて、王后様の命だったのでしょう? チャン将軍は、見事、その命を遂行されましたよ」
涙に濡れる目で笑って言うと、そこで初めてチョンミョンの眉がぴくりと撥ねた。だが、大きく意に介した風はなく、ただ不快そうに眉を寄せる。
「私の命などと、一体何の話だ。あの夜、野盗を追ったチャン将軍に対し、そのチャン将軍こそが赤子を狙っていたように言うなど、勘違いも甚だしい。戯言も大概にせよ」
「……ふふ、勘違い? 戯言ですと……? ではなぜ、この期に及んで私を捕え、お子を探されているのでしょう? 生きていては困るから、知られていては困るからではないですか?」
「……何だと?」
先程とは変わって、チョンミョンの声にあからさまに険が宿った。だが、ユンファは口端を上げたまま構わず続ける。
「―――王后様、赤子はどこかと先程お尋ねになりましたね。会いたければ、あの世に行かれればよい。そうすれば、無念に亡くなられたお子に見えることができるでしょう」
くっと喉の奥で笑うように言うと、チョンミョンの目の色が変わった。怒りに任せるようにギテの手から太刀を引き抜き、その切っ先をぴたりとユンファの首筋に当てる。
つう……、と温かいものが伝うのを感じた。けれど、痛みはない。こんなもの、大したことではない。
それよりも、生まれたばかりのお子を無残に奪われたあの方のお心の方が、何倍も何十倍も、痛かったはず。
「―――たかが側室の一人についていた女官の分際で、誰にものを言っている。あの女の影に隠れて震えていただけの小者が、随分と偉くなったものだな」
「このようなことをされても無駄なことです。あなた様が、あの方のお子の命を奪った事実は、何があろうとも変わらないのですから」
額に立てた青筋を隠そうともせず低く言うチョンミョンと、首筋に当てられた太刀を斜めに見やり、けれどユンファは笑って返し続ける。
かつて、王后であるチョンミョンに向かって、このように正面から言葉を返したことはなかった。それどころか、厳しい眼がいつも恐ろしく、まっすぐに見つめたことだってない。それを思えば、今こうして強く睨み上げている自分が嘘のようだった。
だが、突きつけたい言葉は、まだ足りていない。あの夜、あの方からチョンミョンが奪ったものを考えれば、こんなものでは足りない。
「……ああ、そういえば、」とユンファはチョンミョンを見つめ、薄く笑った。
「あの頃、王后様のお腹にもお子が宿っておられましたね……」
思い出したようにそれを口にすると、なぜか視界の端でぴくっとギテが動くのが見えた。けれど、構わずユンファは続ける。
「そのお子は、無事にお生まれになりましたか? 若君でしたか? 姫でしたか? ……ふふ、どちらにしろ、私には断言できます。この先も、王后様のお子がお世継ぎになることは、未来永劫あり得ません。あの方がいる限り、大王様もそれをお許しにはならないでしょう。それが、天命の子を亡き者にされて、あなた様が―――あなた方が得た、最大の対価です」
最大限の憎悪を込めて、それを放った。思った通り、ぎらっ、とチョンミョンの目が光り、それまでとは比べものにならない程大きく、その気配が変わる。
そして―――。
「――――………っ」
それがどちらの声だったのかは分からない。あるいは、双方のものだったのだろうか。
喉の奥からもれた呻きが、その応酬の果ての最後のひと声になった。
鮮血が迸り、そこからあふれた深紅の浪が、海のように足の下に広がっていく。
ユンファは斜めに深く斬られた胸から夥しい量の血を流しながら、それでもなおチョンミョンを斜めに見上げて小さく笑った。
こうすれば、チョンミョンは必ずそうするだろう、という確信がある。
そのために、こう仕向けたのだ。
すべては、自分がここで死ぬことで、この件を闇に葬り、完全に終わらせるために。
そして、もう二度と、スハが追われることなど無いようにするために――――。




