第48話 縷
―――ふん、時間の無駄であったか。
チョンミョンは縄が切れてどしゃりと地に倒れ伏す姿を、ただ不快なものを見るように上から見下ろした。そして、まだ血の滴る太刀をそこに放る。
かつて、王宮の女官としてあの女に仕えていた者。何を頼みにしてか、あるいは単なる開き直りか、随分と舐めた口を利いてくれたものだ。
倒れ伏して動かなくなった姿に、チョンミョンはそれまで燃え盛っていた炎が急激に沈静化していくのを感じた。途端に、すべてがどうでもいい些末なことのように思えてくる。
「―――やはり、赤子は既にこの世の者ではなかったようだな」
初めから存在などしていなかったものに、我知らずここまで振り回されてしまった自分自身に対して、苛立ちのようなものが僅かに湧き上がる。しかし、それもすべて、もうどうでもよいことだ。
血の海に横たわる姿を見下ろしながら低く呟くと、控えていたギテが「―――王后様、」と静かに前へ進み出た。
「この者の話、そのまま鵜呑みにされるには、やや早計かと」
だが、チョンミョンはそれを鼻で笑う。
「ふん、たとえそうだとして、それが何だと言うのだ」
吐き捨てるように言って、チョンミョンは足元に転がる姿を冷たく一瞥した。
「よくよく考えてみれば、たとえ子が生きていようと、今さらその者にできることなど何もない。既に死んだことになっている者が、本来の場所を取り戻そうとしたところで、簡単に叶う話ではないのだ。何より、私がそれを許さぬ」
「ですが、まことによろしいので……?」
「くどい」
さらに言い募ろうとするギテに、チョンミョンはその一言で一喝する。
「子は死んだのだ。あの日のことを知る者は、もういない。そもそも、この者が先程ほざいていたことなど、ただの戯言に過ぎん。ゆえに、この件についてこれ以上蒸し返すことは、たとえチャン将軍であっても許さぬ」
ギテを鋭く睨み、それ以上視界に入れることも厭うように背を向ける。
一三年前の赤子。
たとえそれが、王太子であるジュングよりも先に生まれた男子で、大王であるソンドの長子だったとしても、側室の一人でしかない者の子が生きていたところで、王后である自分を前に一体何ができるというのか。
それなのに、そんな些末なことをいつまでも気にしていたところで、ただの時間の無駄でしかない。
まこと、このようなことで我を忘れるなど、私としたことがまるで愚にもつかぬことをしてしまった。
はっ、と自嘲気味に笑って、チョンミョンは足元に再び冷たい視線を落とした。
そこに転がる姿には、もうこちらの声は届いていないだろう。びくびくと痙攣するように震えるこの者が最期に何を思って我が太刀を浴びたのかは知らない。興味もない。だが。
たとえこの先、あの女の子がのこのこと王宮に戻ってくるようなことがあれば、この私がその存在ごと捻り潰してくれる。
見下ろす瞳の奥に、一瞬だけ、他を焼き尽くすような苛烈な炎が燃え上がる。
だが、それは本当にほんの一瞬。
興味を失ったようにそこに背を向けると、チョンミョンはその場をあとにした。
◇ ◇ ◇
ユンファが斬られた。
それも、スハの見ている目の前で。
「――――――っ!!!」
口をヨンギルに強く押さえられていなければ、耳をつんざくような金切り声を上げていただろう。
落ち着け―――! と耳元で何度も繰り返される必死な声が聞こえた気がするが、スハの意識にそれは届かず、ただ意味のない音として右から左に流れていく。
目を逸らしたいのに、逸らせない。見たくないのに、まるで縫い留められたようにそこから視線が動かせない。
視界が、真っ赤に染まる。
ユンファが斬られた―――ただその事実だけが、スハの自由を根こそぎ奪い、思考を占拠していた。
前後左右が分からなくなり、自分を押さえつけている手をとにかく払いのけようと、スハの体は力の限りめちゃくちゃに暴れまくる。それを、上からヨンギルの力がさらに強く押さえつけてくる。
なぜ、こうなったのか分からない。
正体不明の黒い連中に、ユンファが連れて行かれた。それをようやく見つけた時、どうしてかユンファは既にかなり痛めつけられたあとで、離れたここから見ても体のあちこちに血が滲んでいるのがはっきりと分かる程だった。そこに、あの二人がやって来たのだ。
いくら考えても、その理由が分からない。
一人は、知らない女の人。そこら辺にいる普通のおばさんとは、根本的に何かが違う。子どものスハにもそのことが分かる程、ひと目で「畏れ」が自然と湧き出てくるような相手だった。当然それは、スハには初めて見る顔である。
けれど、もう一人は違った。
なぜ、ここにその人が現れるのかが分からない。だが事実として、この場に現れたのは、スハどころかこの国中の少年たちが憧れる存在、チャン・ギテ将軍だった。
二人は縛られたユンファと何やら言葉を交わし、そして、その凶行が行われた。
鈍い光を受けた刃が翻り、ユンファの胴を斜めに大きく切り裂く。溢れ出た血飛沫が、辺りを朱く染める。ぼたぼたと鮮血が滴る中に、ユンファの体が崩れ落ちる。
それをただ、スハは声を上げることもできずに見つめていた。
斬ったのは女の人の方だが、チャン・ギテ将軍もそれを眺めていた。止めることもなく、ただ淡々と見つめていた。まるで、ユンファなど死んでも構わないと言うように。
「スハ、堪えろ……! 堪えてくれ……っ!」
耳元でなおもヨンギルが繰り返すが、スハの耳にそれは入ってこない。腕も、足も、体も、今すぐにユンファの元に走り出そうとすごい力で抵抗し続ける。
「………っ!」
ようやくその戒めが解けたのは、ユンファを斬った女とチャン・ギテ将軍がその場を立ち去り、その背すらも見えなくなったあとだった。
母さん……!!
枷の無くなったスハの体は、弾けるようにユンファの元に駆け寄っていく。
「母さん! 母さん……! しっかりして……っ!」
血の海に転がるユンファの体を揺するが、何も反応がない。傷口からは次から次と血が溢れ、押さえても押さえても、指の間からどくどくと無常にこぼれ続ける。その勢いは、トボクの比ではない。
「うわ……あ……、母さん……!うう……っ!」
押さえる手が、止まらない血で朱く染まっていく。指の間から、命が徐々にこぼれていく。
どうしよう、どうしよう……、このままじゃあ、母さんが……。
「ユンファ、しっかりしろ!」
隣でヨンギルも必死に止血を試みているが、やはり、止める力よりも流れていく力の方が強い。元々白いユンファの顔は、どんどん血の気を失っていく。
嗅ぎたくもない錆びた鉄の匂いが、充満している。
「母さん! 母さん……! ………っ!」
もう何度目かの呼びかけを繰り返したところで、ふいに、固く閉じられたままだったユンファの瞼が小さく震えた。
「……う……、ス……ハ……?」
「母さん! 気が付いた? 俺だよ、スハだよ!」
揺する手を止め、スハはユンファの顔を覗き込んだ。のろのろと開いた瞳が、ゆっくりと動いて、ようやくスハの姿を捉えたようにそこで止まる。
「スハ……」
「母さん、もう大丈夫だからね。俺が助けに来たから、もう大丈夫」
ほんの少しだけ、安堵の息がこぼれた。
閉じたままだった目が開いたのだから、大丈夫。失っていた意識が戻ったのだから、もう大丈夫。あとは血が止まれば、こんな傷はすぐに治る。
だが、どうしてか、勝手に浮いてくる涙が止まらない。
強張る頬を必死に動かし、スハはなんとか笑顔を浮かべた。溢れそうになる涙を何度も拭い、ユンファに笑いかける。
「ほら、おじさんもいるし、だから、絶対―――」
「……スハ……、それよりも、母さん……、あなたに……大事な話が……」
声が震えそうになるのを堪え、明るく言おうするスハに、その手を取るように指を動かし、ユンファが息も絶え絶えに何かを言おうとする。
「話? そんなのはあとで聞くから、今はしゃべらないで。それよりも、傷の手当ての方が先―――」
「スハ……、お願い、話を……」
それでも指を伸ばしてくるユンファの手を、スハは両手で強く握った。こぼれそうになる涙を肩口で拭って、なんとか浮かべた笑顔をユンファに向ける。
「大丈夫。待ってて。急いで父さんを呼んでくるから。そしたら、きっと大丈夫。父さんの薬の効き目は、母さんもよく知ってるだろ? こんな傷、すぐに治るから」
「……スハ……!」
何かを必死に訴えようとするユンファから顔を上げ、スハはヨンギルを見た。言うまでもなく、ヨンギルも厳しい顔をしている。だが、スハは構わず言葉を続けた。
「おじさん、父さんを呼んでくるから、それまで母さんをお願い」
「……スハよ、だが、それでは―――」
何かを言おうとするヨンギルの言葉を遮り、スハは再びユンファに目を向ける。
拭っても拭っても、すぐに涙で視界が滲む。けれど、スハはそれを全力で無視した。
気付いてしまえば動けなくなる。その場に蹲って二度と立ち上がれなくなる。それでは間に合わない。助かるかもしれないものが、絶対に助けられなくなる。まだ可能性は残っているのに、そんなのは絶対に嫌だ。
だからこそ、スハは最大限の笑顔で励ますようにユンファに言った。
「母さん、すぐに父さんを呼んでくるから待ってて。そしたら、話でもなんでも、あとでゆっくり聞くから」
「スハ……!」
ユンファとヨンギルが苦渋の表情で見上げる中、スハは再び涙を拭って立ち上がる。そして、
「急いで戻ってくるから、絶対、待っててね」
最後に渾身の力を頬に込めて振り返り、スハはそこから走り出した。




