第37話 痕
「ああ、お戻りになりましたか、王女様」
お寺の入口でスハと別れ、急いでここまで戻ってきたところ。
いろいろあって、予定より少し遅くなってしまったこともあり、ヒョリがさぞやカンカンで待ち構えているだろうと思っていたが、予想に反してまったく静かな様子に、セヨンは逆に拍子抜けしてしまった。
「た、ただいま」
「ええ、おかえりなさい」
ヒョリは淡々とした様子でセヨンの着替えを用意し、粛々と「片付け」を進めていく。そして、セヨンの着替えがある程度終わると、今度は、自身も女官見習いの衣装へ手早く着替え始める。ただ、黙々と。
室内には、衣擦れの音だけが響いている。
「どうかしました?」
「……えっ!?」
横目にそっとヒョリの様子をうかがっていたところで声をかけられ、セヨンはほぼ条件反射的にびくっと肩を跳ね上げた。
「な、何が?」
「そんなに見つめて、私に何かお話しでもあるのかと」
返しながらも、ヒョリはこちらを見ない。それがなんだか思うところがあるように見えて、セヨンはびくびくしながら聞き返した。
「話があるのは、ヒョリの方じゃない……?」
「いえ、特にありませんが。なぜそう思うのです?」
「だってヒョリ、本当は怒ってるんじゃないかと思って」
「怒る? 私が? そんなことないですけど」
「本当に? だって私、戻ってくるのが少し遅くなっちゃったでしょう? なのに何も言わないから、逆にものすごく怒ってるんじゃないかなって……」
うかがうように言うと、ヒョリはそこでようやくセヨンを見た。が、無言で見つめるだけで、何も言わない。
だらだらと汗を流しながら待っていたセヨンが、その沈黙に耐えられなくなりそうになった時、ヒョリは、はあ、と大きくため息をついた。
「そう思うのなら、遅れないことです」
「……はい」
「まあそもそも、何度も抜け出すのもどうかと思いますけどね」
「……ごもっともです」
「―――でも、そんなことは別にいいんですよ、まだ」
「まだ?」
思わず聞き返したセヨンに、ヒョリはそこから滔々と語り始める。
「ええ、それはいいんです。王女様のことですから、分かってました。予定よりお戻りが随分遅くなったにも関わらず、こっちがやきもきした気分で待っていたというのに、何事もなかったような顔をしていつも通りの普通の様子で戻ってきたとしても、それは別にいいんです。そこは私も心得てますから」
「ちょ、ちょっとヒョリ、私も一応そこは申し訳なさそうに帰ってこなかった……?」
そっと口を挟むと、鋭い視線で黙殺された。そして、何事もなかったように同じ調子で続ける。
「ええ、だからそれはいいんです。問題はそんなことではありません」
ヒョリは言うと、そこでいきなり眉を吊り上げ、わしっ! とセヨンの腕を掴んだ。
「そんなことより、これ! これは一体何なのですか!」
ヒョリが示したのは、セヨンの手首だ。そこには、はっきりくっきりと、蚯蚓腫れのように指の痕がついていた。
「着替えの合間にちらっと見えたから何かと思えば、これ、明らかに誰かに掴まれた痕ですよね? 一体何が起きればこんなことになるんですか。同じ子どもだと思って侮っていましたが、まさか、その、なんとかという者に無体な真似をされたわけではないですよね!?」
「ちょ、無体な真似って―――」
「子どもの付き合いだからと思って多めに見ていた私が間違いでした。まさか、王女様相手に狼藉を働くなんて……」
「ろ、狼藉? ちょっと、スハはそんなことしないわ」
「では、これは一体何なのです。……まさか、そういう粗暴な輩がいるところに、自らのこのこと出向いたわけではないですよね? あなた、ご自分が王女だという自覚あります?」
ヒョリの口調は、だんだん早口に、そして、どんどん辛辣になっていく。けれど、その原因となっている自覚はセヨンにも一応あるので、何も言えない。
ヒョリはそこで一旦言葉を止め、感情の高ぶりを静めるように肩で大きく息をついた。そして、すべて吐き出して満足したような、とてもすっきりとした様子で顔を上げた。
「申し訳ありません、少々取り乱してしまいました」
「し、少々……?」
思わず言いかけるセヨンをまた黙殺し、ヒョリはセヨンをそのまま椅子に座らせる。そして、自身は荷の中から手当ての道具を引っ張り出してきた。
「無事に戻ってこられたからよかったものの、何かあったらどうするつもりだったんですか」
言いながら、セヨンの赤く腫れた痕に薬を塗り、包帯を巻いてくれる。
「どうするもこうするも、だって、あんなことになるなんて思ってなかったから」
「あんなこと? ……ああ、いいえ! 話さないでください。知りたくありません」
「え、どうして? 私はむしろ話したいんだけど」
「嫌ですよ。そこまでの共犯にはなりたくないです。そこまで知ってしまったら、王女様が私の目を盗んで抜け出したんだと言い張れなくなるじゃないですか。抜け出した先での出来事は、王女様の中だけにしまっておいてください」
「ええ、そんな! それこそ無体な真似じゃない……!?」
「何を言ってるんです。王女様にとっては、これくらい、無体じゃありません」
はっきりと言い放つヒョリに、一体ヒョリの中で自分はどんな位置づけになっているんだろう、とセヨンは思わずにいられなかった。
手当ても片付けも一段落したところで、ヒョリは再び説くようにセヨンに言った。
「さて、もう十分、満足されたでしょう。滞在期間はまだもう少しありますが、これ以上はさすがにやめておいた方がいいと思いますよ。そろそろ本当に、バレるのも時間の問題です」
「それは、そうよね……」
分かってる、とは頷きつつ、ヒョリの言葉に、否とも、諾とも返さず、セヨンはただ目を下げる。
耳の奥には、波止場の近くで助けてくれた人に言われたことが響いていた。
―――冒険もいいが、そのために傷つくかもしれない人間がいるということを、もう少し知っておかねばならんなあ。自らにその気がなくとも、その危険性は常にあるのだ。そうなってから後悔しても、遅いというものだぞ。
スハに言っているように見せかけて、あれはきっと自分に言われた言葉だったのだと思う。
あの人は、通りを案内してもらっていた時にも会った人だ。その時と今日と、あの人には二回しか会っていないが、相手はセヨンの正体に気付いているようだった。なぜ、どうして分かったのだろう。
スハと親しい仲のようだったけど、何者なのかしら……。
思いつつ、再び言われた言葉が耳に響く。
自由には責任が伴う。子どもだからと言って、何をしても許されるわけではない、と。
スハといると忘れそうになるが、自分は王女なのだ。先程も、結果として何事もなく助かったからよかったものの、あれで何かが起きていたら、罰せられるのはまず間違いなく、正体を隠して抜け出していたセヨンの方ではなく、一緒にいたスハの方になっていたはずだ。スハだけでなく、その家族も、もしかしたらその周りの人も、たくさんの人が「責任」を取らされるようなことになっていたかもしれない。
すべては、セヨンが本当は、この国の王女だから。
実際はただの一一歳の子どもだったとしても、その事実が重く圧し掛かる。
誰かの人生を、大きく変えてしまうかも知れない。
王女という身分に、それだけの責任が伴っていることは分かっている。分かっているけれど、でも。
「他の人のように、私も普通に、友達と一緒にいたいだけなのに……」
思っていると、「だって、王女様じゃないですか」と、ヒョリがなんでもない調子で言葉を返してきた。
「……え? 私、今、口に出してた?」
「ええ、出してました、思いきり」
「ほんと? 心の中だけで思ったつもりだったのに。もうっ、そういうのは聞かなかったフリをしてよ」
「そんなの無理ですよ。だって、しっかり聞こえましたもん」
「もん、って……」
そしてヒョリは、当たり前のことを話すように続けた。
「王女様なんですから、お望みに関わらず、他の人のようにとは当然いかないですよ。王女様もそれが分かっているから、身分を隠して、名前を偽って、そのスホだか、スヒだかいう者と会っていたのでしょう?」
「―――スハよ」
「はい?」
「スハ」
「ああ、スハですね」
はいはい―――と、さして気にも留めていなさそうな様子で頷くヒョリから、セヨンは視線を外す。
ヒョリの言葉は間違っていない。
正体を明かせば当然友達ではいられなくなることが分かっているから、黙っている。
王女であることが嫌だと思っているわけではないし、それをどうにかしたいと思っているわけでもない。現に、王女だったからこそ、スハと出会うことができたのだ。
楽しい気持ち、嬉しい気持ちだけじゃ、自分がやりたいことをすることはできないんだわ……。
それが、どうしようもなくもどかしい。
せめてここにいる間だけでも、スハとは友達でいたい。
まだ幼い小さな頭で、セヨンはたくさん考えていた。




