第36話 袂
ヨンギルの言葉に、ギテが静かに返してくる。
「―――『白い鴉』ですか」
「ああ、そうだ、『白い鴉』。お前はその白い鴉の正体を、何だと考える」
「正体、ですか?」
考えたこともないというように、ギテが僅かに首を動かす。それに目を細めて、ヨンギルは風が吹き込む桟敷の高欄の向こうに視線を流した。
「その名すら失われて久しいかの国。だが、それは確かにここにあった国だ。白い鴉は、その誕生から国を支え、その後数百年に渡って反映する大国の礎を築いた。白い鴉が、文字通り真に「鴉」であったかは、もはや知る術もない。だが、ある者は、それを「希望」だと言う」
「白い鴉が、希望?」
「ああ、希望だ。人とは不思議なものでな、希望のあるところには人が集まる。希望がなければ、どんな人間でも途中で足が止まってしまう。希望というものは、人が前を向くための唯一の光なのだ。それが、ひいては国を支える大きな力となる。その力が、かの国をこの三景の覇者としたのだ」
「―――つまり、白い鴉は人々の希望であり、それこそがかつての大国を支えたと?」
それには答えず、ヨンギルは静かに笑う。
「そんな白い鴉が……、いや、希望が、大王の元にあるか?」
ギテは何も言わない。それは、ヨンギルの問いかけに対する否定というより、肯定のように思えた。ヨンギルもまた、同じ考えだ。今の大王の元に、それは無い。
「だから、戻る気はないというのだ。その実際の正体が何であれ、白い鴉がいなくば三景を統一することなど叶わん。そうでないなら、夢見るだけ無駄というものよ」
そのまま黙っていたギテは、しばらく間を置いて「分かりました」と言った。
「では、私が師匠を訪ねたのは無駄だったようです。大王様には私から報告いたします。放っている間諜への命も取り消しましょう」
「そうしてくれると有難い」
椅子を引き、ギテが立ち上がる。
「酒は、おいしくいただきました。次は私がご馳走しましょう。都城にお立ち寄りになった際には、いつでもお声がけください」
「立ち寄ることがあるとは思えんが、まあ、覚えておこう」
言って、酒を掲げる。小さく頭を下げて行きかけたギテは、そこでふと思い出したようにヨンギルを振り返った。
「そういえば、お聞きしておきたいことが一つ。この辺りに住まう女人で、半身を引きずる者をご存じありませんか?」
「半身を引きずる女人?」
「ええ、師匠のお知り合いに、いはしまいか、と」
「うん? ―――いや、そのような者に心当たりはないが……。だが、なぜそのような者を探しているのだ?」
首を傾げるヨンギルに、ギテは僅かに目を細め、「―――いえ、ご存じでなければよいのです」と答えるに留め、それ以上の言葉を加えることはしない。その様子に密かに眉を顰めつつ、「……ああ、女人といえば、」と、ヨンギルは椅子に座ったまま別の方向に話を振った。
「大王の娘は、今年でいくつになった」
「は、王女様ですか? ……それは、なぜ」
「なぜも何も、お前が今ここにいるのは、あの籠の者たちの警護のためもあるだろう。護衛すべき人間の所在くらい、しっかり把握しておくことだな。天下の大将軍が、聞いて呆れるわ」
酒に視線を戻すヨンギルに対し、言われたギテは厳しい視線を外に投げた。やはりそこに控えていたらしい。柱の影から男が一人出てきて、階上のギテに礼を取る。右の頬に、ほくろがある男だ。
目線だけのギテの命に、男はその意を理解したようだ。小さく首肯し、そのまま静かに離れていく。
「では、積もる話はまたの機会に。御免」
そう言って頭を下げ、その場を退席していくギテの背を、ヨンギルは変わらない表情で酒を口に運びながら見送った。
「―――まったく、よくやるぜ」
ギテが立ち去った後、そう低く呟いたのは、影の席に座っていた間諜だ。
「いたのか」
「ふん、よく言う。いるのは気付いていたくせに。向こうは俺のことなど気に留めていなかったらしいがな」
言いながら、間諜は眼下の通りに視線を投げた。その先にあるのは、もう見えなくなった鎧の背だ。
ギテと連れ立って店に入るところを見かけでもしたのだろう。ここでなされる会話に聞き耳を立てるため、自分たちを追って店に入ったことは明白だった。
ヨンギル同様、影の席にこの男が座っていることにはギテも気付いていただろうが、それをそのまま放置したということは、今まで男がヨンギルのことを報告せずにいたことについて、特に問い質すつもりは無いようだ。単に、時間の無駄だと考えただけかもしれないが。
「せっかく俺が忠告してやったのに、わざわざ見つかったってことは、表に出て行く気にでもなったか?」
「だから、私は別に隠れているわけではないと、何度言ったら分かるんだ」
「何とでも言ってろ。あんたがどういうつもりでいようと、隠れて見えていることに変わりはない」
その口振りにふっと笑って、後ろを振り返る。
「では、お前は「隠れている」私のために、今まで黙っていてくれたというわけか?」
「はっ、勘違いするな」
影の席に座っていた間諜は立ち上がり、心底嫌そうに顔をしかめた。
「あんたのことなんて俺はどうだっていいんだよ。俺はここでの生活が存外に気に入ってるんだ。俺の観察圏内で面倒なことが起きて、それを崩されたくないだけさ。……まあ、それももう気にする必要はなくなったみたいだがな」
「まったく、お前も素直ではないな」
「言ってろ」
それを最後に気配が遠ざかる。ヨンギルがそうだ、と思い出し、この前菓子を大量に買わされかけ、あわや大惨事になりかけたことに対して文句を言おうとした時には、既にその気配は微塵も感じられなくなっていた。
この、逃げ足の早いやつめ。
己に不利になることが起きそうだと分かると、さっさと姿をくらます。その危機管理能力は、ヨンギルも舌を巻く程だ。恐らく、間諜の中でも一、二を争う実力に違いない。
器に残っていた酒を傾け、ヨンギルは息をついた。そして、最後のギテの言葉を思い出し、その瞳に僅かに険を宿らせる。
ユンファを探していると言っていた。こんな辺境に暮らす、縁もゆかりもないはずの者を、なぜ探しているのか。
そして、脳裏をよぎるものがある。
先日、何かに追われているようだったユンファ。確かにあの時、ユンファと合流する少し前、通りの向こうにいたギテの姿を見かけている。では、あの時ユンファを追っていたのは、ギテだったということか。
理由は分からないが、注意しておくに越したことはないかもしれない。
ヨンギルはそう思いながら、高欄の外に目を移した。眼下の通りでは賑やかに人が行き交っている。そこに広がるのは、どこにでもある穏やかな暮らしの光景だ。それが実は当たり前のものではないということを、ここに暮らす人々は知っているのだろうか。
再び息をついて、店を出ようとヨンギルも椅子から立ち上がった。
そうだ、酒を―――。
そのまま行きかけて、卓を振り返る。
注文した酒は二人分。ヨンギルが数杯口にしたのみである酒瓶には、まだたくさん酒が残っているはずだ。このまま余らすのももったいない。どうせなら、それを減っていた自身の酒の方に移してしまおうと思った。だが。
……うん? ううんんん!?!?
振り返ると、そこにあったはずの酒瓶は、霧散したようになぜか忽然と姿を消している。卓の上には、空の器と、残った肴があるのみで、肝心の酒瓶が見当たらない。
卓の下、周りの卓の上や椅子の下など、床に張り付いて隈なく探すが見当たらない。
これはもしや―――。
「……間諜め……!」
さり気なく私の酒を奪っていきおったな。まったく、抜け目のないやつ。
ぎりりと悔しく奥歯を噛み締めるが、間諜の姿は通りの人々の中に紛れてとうに見えなくなっていた。




