第38話 前
◇ ◇ ◇
闇の帳が落ちる。黒い影が蠢く。
「―――見つけたか」
影はその前に頭を垂れ、答えの代わりに静かに首肯する。
「命があれば、いつでも」
それに頷くように、影よりもさらに深い闇が、ゆっくりと動いた。
常は無表情な口元に、ごく僅かに広がる笑み。
一三年前のあの時。まさかあの状況から、本当に逃げ果せていたとは。
―――だが、それもここまでだ。
闇の中で、冷たい色を宿した双眸が、ぎらりと光る。
受けた命は絶対。もう二度と、仕損じることなどあってはならない。
そして、重い闇が、昏い影が、鋭い牙を携えて動き始める。
己の不始末は、この手で必ず片付ける―――。
◇ ◇ ◇
火祭りの日は、毎年朝から賑やかな気配に包まれている。
祭りは夕方からにも関わらず、大人も子どもも一緒になって、そわそわと浮足立っているからだ。
祭り本番の夜は、松明を持った大勢の男衆が村の中を走り抜ける。血気盛んな男たちは、誰が今年一の火男になるかを賭けて火花を散らす。
それが祭りの一番の見どころではあるが、男と男の激しいぶつかり合いは大きな怪我も生む。となると、出番になるのは、医者や薬房の人々だ。
ソンジェは毎年、猛り狂った者たちを相手に、一晩中怪我の手当てをして回っている。今年も当然そのつもりのようで、何日も前から薬の準備を進めていた。
元々はスハも、それを手伝おうと思っていたのだが……。
薬箱に十分な薬が補充されていることを入念に確認し、これから迎える祭り本番に向けて最後の点検を進めるソンジェに、「―――あのさ、父さん」と、スハはできるだけ平静を装って声をかけた。
「今日の火祭りなんだけど、今年は父さんの手伝いじゃなくて、ドハンたちと回ってもいい?」
「なんだ、改まって」
準備の手を止めて顔を上げたソンジェは、スハが思わずぱちくりと瞳を瞬いてしまう程、何でもない様子で言葉を返してくる。
「わざわざそんなことを聞かなくても、お前の好きにすればいいじゃないか」
「え―――」
「去年までだって、俺は別に、お前に仕事を手伝ってくれと頼んだ覚えはないぞ? それに、そもそも、薬房の仕事を手伝う必要はないといつも言っているだろう」
なんと、ほんの少しでも恐る恐る尋ねてしまった自分が逆に恥ずかしく思えてくる程、あっけらかんとした答えだ。
「うわっ、またそんな言い方。それじゃあ俺の手伝いが余計なお世話みたいじゃないか」
「……お前はまた、なぜそう、ひねくれた捉え方になるんだ」
「はは、冗談だよ。分かってるって」
嫌そうに顔をしかめるソンジェに、「ありがとう、父さん」と笑ったところで、握り飯の入った包みを持ったユンファが土間から出てきた。
「あら、スハ、今年は父さんと一緒じゃないの? どうしましょう、二人分のおにぎりをもう包んでしまったんだけど」
困ったようにユンファが首を傾げる。
「ああ、大丈夫だよ。俺は祭りで何か適当に食べるから。それは父さんが持っていって」
「そうは言っても、こんなにか?」
「火祭りの現場は戦場なんだから、これでも足りないくらいだって。今年はどこも、いつもより参加者が多くて力が入ってるみたいだから」
「まさか、年齢を偽って参加する奴らまでいるんじゃないだろうな……」
げんなりとした様子で呟くソンジェに、「大丈夫だよ、父さんの鉄拳があれば、そんな奴らは逃げて行くから」と言うと、なぜかスハの頭にその鉄拳が落ちてきた。解せない。
「母さんは、今年も祭りにはいかないんだよね?」
いてて、と撫でる頭の痛みが引いてきたところで、気を取り直してスハはユンファに尋ねる。
火が苦手な上に、見物客でごった返す通りは不自由な足で進むのには難儀するということで、火祭りの日は毎年、ユンファは家でソンジェとスハの帰りを待っていた。
「ええ、そうね。今年も母さんは家で待ってるわ」
「分かった。それじゃあ、何かお土産を買って帰るね。父さんも、仕事で忙しいかもしれないけど、ちゃんと母さんにお土産を用意してよ」
「なんでお前にそんなことを言われなきゃならん……」
「あ、用意しないつもりだな!?」
「な……っ! そんなことは言ってないだろう!」
「だってさ、母さん。だから、楽しみに待っててね」
「ええ、待ってるわ」
くすくすと笑いながら答えるユンファは、ソンジェにも楽しそうに笑いかける。年甲斐もなく真っ赤になる父の様子に、スハもふふっと笑って、
「それじゃあ、俺、出かけてくるから」
と地を蹴った。
「なんだ? もう行くのか?」
「随分早いわね」
「うん、何のお店が出てるのかとか、先に見ておきたいし。どっちにしろもうすぐ夕方だし、近くで適当に時間潰すよ。行ってきます」
「そう、行ってらっしゃい。気を付けてね」
「スハ、くれぐれも言っておくが、羽目を外して怪我をするなんてことがないようにしろよ」
「分かってるよ」
最後に軽く手を振って、スハは火祭り前の喧騒の方へ向かった。
あ、あれとか、ヒョリに見せたら喜びそうだな。あれも、あとで一緒に食べよう。火祭りでしか食べられないものだから、きっと喜ぶぞ。
いつものように大興奮で喜ぶヒョリの顔を想像して、ふふっと笑いながら通りを歩く。
ソンジェとユンファにはドハンたちと回ると言ったが、それは嘘だ。スハは今、通りに並ぶ露店の様子を確認しながら、寺へと向かっていた。ヒョリを迎えに行くためだ。
火祭りは、松明を持って走り抜ける男衆や、勇ましい太鼓の音に合わせて雄々しく踊る姿が一番の見物ではあるが、こういった通りに出る露店の品々も楽しみの一つだ。毎年ドハンが迷うだけあって、食べ物だけでもたくさんの種類が並んでいる。それでも、祭りの終わりが近付くとほとんどが売り切れてしまうのだから、見物人の多さは普段の通りの賑わいとは比べ物にならない。
それもきっと、ヒョリは大興奮で見て回るんだろうな―――と、スハの頬はまた自然と綻んでいく。
森の中の鳥の巣も、この辺りの人々の暮らしを支える通りの様子も、そして、あの波止場だって、スハの日常に当たり前にあるすべてのものが、ヒョリにはとても珍しいものらしい。かと思えば、スハが知らない他の国のお菓子のことを当然のように話したりする。
一体都城でどんな暮らしをしていたらそんなことになるのか分からないが、スハの周りに当たり前にあるものは、普段のヒョリの生活の中には無いようだ。だからこそ、ヒョリがここにいる内に、スハはたくさんのものを見せてあげたいと思っていた。そして、何より。
自分でもなんでか分かんないけど、ヒョリが楽しそうにしてると、俺もすごく嬉しくなるんだよな。
他の人に対するものともまた違う。あの明るい笑顔を見ると、不思議とこっちまで満たされた気分になる。
だから、そういうヒョリの顔を、もっとずっと見ていたい。
遠く離れた都城の人間に関わるのはやめろ、とヨンギルは言うが、そんなものは関係ない。だって、ヒョリは友達だからだ。友達を喜ばせたいと思うことの何がいけないのか、スハには分からない。
だから、今スハは寺に向かっている。
火祭りを一緒に回ろう、ヒョリとそう約束したから。
もし行けたら、なんて言ったけど、ヒョリが忙しそうにしてたら、俺がその仕事を手伝ったっていいわけだし。
最初から最後までじゃなくても、少しでも一緒に回れれば、それでいい。
あ、あれも、見せたら飛びつきそうだな。
ちらと近くの露店に見えた品にまたそんなことを思い、その想像にくくっと笑って、スハは足を速める。
早く、その顔が見たい。時間は限られているから、少しでもたくさんのものが見られるように。
ふと、そんなスハの耳の奥に、少し前のヨンギルの言葉が響いた。
―――今はいいかもしれんが、あの子が都城に帰ってしまえばそれまでだ。二度と会うことのない相手に時間を割いたところで、何の足しにもならん。
いいや、そんなことは分からない。
もしヒョリが都城に帰ってしまっても、そのまま二度と会うことがないなんて、誰が決めた。
繋がりは太ければ太い程、記憶は深ければ深い程、一度離れても必ずまた会えるはずだ。だから、きっとまた会えるように、今はたくさんの思い出をつくっておきたい。
その時のスハは、ただそれだけを思っていた。




