第6話 教
「ナ教吏様」
その声に先に反応したのはソンジェの方だった。
息子に再度鉄拳を食らわせようとしていたのが嘘のように、居住まいを正して頭を下げる。
「いらっしゃるとは知らず」
「ソンジェよ、その呼び方はやめろと言っているだろう」
「いえ、そういうわけには。私には、あなた様は教吏様ですので」
恐縮しているようなソンジェの挨拶を受け、ナ教吏と呼ばれた男―――ナ・ヨンギルは、困ったような呆れたような顔で「まったく、私は教吏ではないというに……」と笑う。
歳はソンジェより少し上というくらい。
だが、いい歳して大した職にもつかず、見る度にただ酒ばかりを吞んでいるというのが、このヨンギルという男だった。そんな様子だから当然嫁のなり手もなく、今にいたるまでずっと独り身でいる。
酒ばかり呑んでいるが、このおじさんの体は意外にも引き締まっており、歳のわりには背筋もしっかり伸びている。髪も黒々としていて白いものはほとんど見られない。
何もせずだらしなく過ごしているはずなのに、そこら辺の中年のおじさんよりも余程溌剌としているように見えるのが不思議な人だ。
ソンジェいわく、スハの家が今薬房としてやっていけているのは、このヨンギルの教えがあったからこそらしい。
近くの山々で採れる薬草や薬材の類について、その効能と扱い方、薬の調合方法など、およそ薬房をやっていくのに必要な知識のすべてを授けてくれたのが、このヨンギルだという話だ。そのため、ソンジェやユンファはヨンギルのことを「教吏様」と敬意を込めて呼んでいる。
教吏というのは、学問を教える官吏のことである。学堂で教えるのがその主な仕事で、中央の都城で行われる登用試験に合格した者が、地方に送られる形でその任につくと聞いている。
ちなみに、この村に学堂はなく、スハは本物の教吏を見たことがない。ソンジェやユンファも、本物は見たことがないのではないかと思っている。ヨンギルをそう呼ぶくらいだ。本物を知っていれば、ただの酒呑みでしかないヨンギルのことを、教吏などとは呼べないはずである。
「おじさん、また酒呑んでるの? 昼間から酒ばかり呑んで、いい大人がよく飽きないよな」
手にぶら下がる瓢箪を見下ろしながらスハが言うと、またまた頭をばしっとソンジェに払われた。
「なんだ、その言い方は。そんなことより、きちんと挨拶をしないか」
「もう、痛いなあ。だって、本当の話じゃないか」
何度も叩かれて、そろそろ頭の皮がひりひりと痛み始めている。頭をさするスハの様子に苦笑しながら、「まあまあ」と割って入ったのはヨンギルだ。
「ソンジェ、そう目くじらを立ててやるな。スハの言う通り、間違った言葉でもないだろう。私が昼間から酒ばかり呑んでいるのは確かなんだ」
「しかし……」
「よいよい、子どもはこれくらいの方が元気があってよいではないか」
ははは、と笑うヨンギルは、そこでまた瓢箪に口をつける。ぷはっと口を離すと、ふわっと酒の香りが漂った。
一体何がおいしくて、酒ばかり呑んでいるのだろうか。仕事にもつかず、そのお金は一体どこから出ているのか不思議で仕方がない。
そう思って、スハは、あっ、と思い出した。
「おじさん、そういえば、この前貸したお金、まだ返してもらってないんだけど」
「うん? 金?」
何のことか分からないという顔のヨンギルに、スハは思わず半目になる。
「まさか、忘れたわけじゃないよな。どうしても今すぐ必要だって言うから貸したのに。……あ、まさかあれも酒に使ったんじゃないだろうな」
「うん? うーむ、ははは」
あさっての方向を見上げて笑うヨンギルに、スハはますます疑いの眼差しを向ける。
薬房や家の仕事を手伝う駄賃として、両親はいつも少しだけスハにお小遣いをくれている。それを少しずつ貯めているものが、スハにはあった。
ヨンギルにどうしても金が必要だと言われ、そこから少しだけ貸したのは少し前のことだ。単に忘れているのか、惚けているだけなのか、だが今の様子を見るに、どうやら酒に消えてしまったのは確実なようだ。
自分にとって雲行きが怪しくなってきたのを察したのだろう、スハが何か言おうとする前に、「そうだ、スハよ」とヨンギルが少し慌てた様子で口を開いた。
「お前、ソンジェに何か用があって来たのではないのか? その脇の包みはどうした」
「あ、そうだった」
その言葉で、スハはようやく当初の目的を思い出した。そして、握り飯が入った包みをソンジェに渡す。
「これ、母さんが、父さんにって。お昼、忘れてたみたいだよ」
「ああ、そうか。すまんな」
包みを受け取って、ソンジェが懐にしまう。それを確認したところで、向こうの方から太鼓の音が聞こえてきた。
興味を惹かれるような不思議な拍子を踏んでいる。客寄せのお囃子の音だ。火祭りを前に、旅芸人が来ているのかもしれない。
「珍しい、旅芸人か」
ヨンギルとソンジェも興味を惹かれたのか、そちらの方に目を向けている。
音に惹かれたのは通りを歩いていた他の人々も同じだったようで、それぞれに止めた足を、次第にそちらに向け始める。音の方に徐々に人だかりができあがっていくのが、今いるところからでもよく見えた。
「スハ、気になるなら見てくればいい」
「父さんは?」
「俺はもう少し仕事が残ってるからな。終わったら帰るから、母さんにも礼を言っておいてくれ」
「うん、分かった」
スハはソンジェに頷き、
「じゃあね、おじさん。いい? お金は今度絶対返してよ」
ヨンギルにはそう念を押しておいて、人だかりの方へ駆け出す。後ろで「こら、きちんと挨拶しろと言ってるだろう!」というソンジェの声が聞こえたが、とりあえず振り返るのはやめておいた。
「すみません、躾がなっておらず……」
スハの背が見えなくなって、さっそく申し訳なさそうに頭を下げてくるソンジェに対し、「よいよい」とヨンギルは軽く手を振った。まだ仕事が残っているというソンジェに合わせて、ヨンギルも歩き始める。
「スハはあれだからよいのだ。遠慮などされたら、私の方が逆に肩身が狭い思いをすることになる」
「あいつは知らないんです。今でも時々、ナ教吏様に教えを乞うているのを」
「なに、私がそなたに教えていることなど、大した内容ではないではないか。私の方が逆に教わることが多いくらいだぞ」
「いいえ、そのような。とんでもない話です」
恐縮しきっている様子で再び頭を下げるソンジェに、ヨンギルは軽く息をついた。
ソンジェは、性根がまっすぐな男だ。まっすぐ過ぎて、時に融通が利かなく映ることもある。
歳は確か四○辺りだったはずで、ヨンギルよりも少し若い。実直で、勤勉な性格をしているこの男との付き合いは、ヨンギルがこの場所にやって来てしばらくした頃には始まっていた。だから、かれこれ一五年近い付き合いになる。
元々は、ここらの山で採れる薬草について軽く教えた程度だった。それが、気付けばこの辺りで一番の薬房の主となっているのだから、ソンジェの勤勉ぶりは誇るべきものである。
その真面目さは、何かにつけ無遠慮なスハにも受け継がれているようで、あの少年は、あれで結構、両親や周りの者を大切にする優しい子だ。
「ところで、スハは今年でいくつになった」
「一三です」
「もうそんなになるか。早いものだな」
「ええ、本当に」
ソンジェが、つくづく、といった表情で頷く。それにふっと笑い、手に下げた瓢箪を口に運びながら、ヨンギルは目を細めた。
初めて会った時は、まだ歩きもしないほんの赤子であったのに。今ではくるくると表情を変え、言うことにも遠慮がない、大人顔負けの少年に成長している。
本当に、時の流れは早い。
「ナ教吏様には本当に感謝しているのです」
思っていると、ソンジェがまたそんなことを言い始めた。
「だから、その呼び方はやめろと言っているのに」
「いいえ、呼ばせてください。我が家の今の暮らしがあるのは、すべてナ教吏様のおかげなのですから。ナ教吏様がいなければ、私はあの時、スハとユンファを助けることができませんでした。私の力が足りず、ユンファには後遺症を残すことになってしまいましたが、それでも、今二人の笑顔を見ることができているのは、間違いなくあなた様の教えがあったからなのです」
「ははは、やめてくれ。そこまで言われると、さすがに私も照れる。私など、実際何もしていないだろう」
その言葉通り、ヨンギルは本当に何もしていない。背中に大怪我を負ったユンファを救うことができたのは、ソンジェが必死に救おうとしたからだ。それは、ヨンギルが礼を言われるようなことではない。
ソンジェからの過分な礼の言葉を止めるためにも、話題を少し変えるためにも「ああ、そうだ」とヨンギルは思いついたことを急いで口にした。
「それ程感謝しているのであれば、先程スハが言っていたように、ユンファに髪飾りの一つでも贈ってやったらどうだ。こんな酒呑みに礼を言うより、何倍も意義があると思うぞ」
そう言って、手にした瓢箪を軽く振ってみせる。そして、ヨンギルはそこで、はた、と別の意味で動きを止めた。
何ということだ。もう中身が枯渇しようとしている。先程調達したばかりだというのに、ちと早すぎではないか?
さては酒屋の店主、こちらの目を盗んで少なめに入れおったか。
むむ、と眉を寄せて再度瓢箪を振るが、それで中身が増えるわけでもない。ますます眉間に力を入れて、今日一日の酒をこれからどうしようか、と真剣に考え始める。
ヨンギルは酒にかなり強い。だから、呑んで呑まれるということはない。
ちなみに、ただ酒が好きで呑んでいるだけで、別に酒がなければ生きていけないというわけではない。実際、呑まなくても、それはそれで平気なのだ。手が震えるなどの禁断症状が現れることもない。だが、酒以外に大した楽しみもない。つまり、スハではないが、いい歳して自分はかなりつまらない人間だということだ。
そんなことを考えていると、「本当に、そうでしょうか……?」と少し自信なげな言葉が聞こえてきた。
「うん?」
「ああ、いえ。その……、本当に、喜ぶでしょうか」
「うん? 何だって? 喜ぶ?」
珍しくごにょごにょと言い淀むソンジェに、耳を寄せて盛大に聞き返す。まだまだ若いと思っているが、もしや自分の耳も遠くなってきたのだろうか。
「といいますか……、ごほんっ、愛想をつかされると皆が噂しているというのは、その……」
「ああ、なんだ、ユンファのことか。うむ、そうだな、愛想うんぬんは私も知らんが、何かを贈られれば喜ばん者はおらんだろう」
「そうですか」
真剣に試案している様子のソンジェに、ヨンギルは思わず目をぱちくりとさせた。
なんと、この生真面目な男がそんなことに本気で頭を悩ませる日がくるとは。これは面白い。
滅多に見られないソンジェの様子を、少しからかってやろうかと年甲斐もなく悪戯心が働きかけたところで、
「ところで、」
「何だ、まだ気になることがあるのか」
くくく、どう面白がってやろう。そんな底意地の悪い心の声が聞こえていたのだろうか。
「スハから金を借りたというのは、本当ですか」
静かな、けれど糾弾するような声と眼差しが、ヨンギルに突き刺さる。
まさか本当に子どもからお金を巻き上げるなんて、しかもそれを酒代に使うなんて、そんなことしてないですよね? ―――という言外の圧力を感じる。
「ははは、いやいや。それはまあ、なんというか、ははは……」
否定も肯定もせず、ヨンギルはただ笑って、その場をやり過ごすことにした。




