第5話 村
スハが住む村は、紫微国の辺境に位置する。
詳しくは知らないが、ここから紫微国の王宮がある都城―――国の中心部まで行くには、山をいくつか越える必要がある……らしい。
らしい、というのは、それがあくまで大人たちから聞いた話で、この村から出たことがないスハには、その話がどこまで本当なのか確かめようがないからだ。
国の中心部から見るとかなりの辺境に当たるらしいこの村は、驚いたことに、意外にも栄えている。近くに大海に通じる太い河川が流れており、四方へ荷を運ぶ大小いくつもの船が、この村の近くの波止場を経由するためだ。
この一〇年で紫微国の躍進はさらに進み、領土は拡大の一途を辿っていると聞いた。それに比例するように、波止場に乗り入れる船の数も増えているらしい。
そのおかげで、村には以前にも増して絶えず人の行き来がある。広場に通じる一番広い通りには小さな露店がいくつも並び、他の村では週に一、二度の市も、毎日開かれる程だ。
今では、村はむしろ小さな街と呼べる程に大きく成長し、客寄せの声や値切り交渉、買い物に会話を弾ませる親子の笑顔など、行き交う人々の姿で常に活気に満ちている。
そんな、賑やかな人々の声が行き交う中―――。
その一番広い通りを握り飯の包みを抱えて歩きながら、スハは父のソンジェの姿を探した。
母のユンファいわく、今日はこの通りに軒を連ねる店に、注文された薬包を届けて回っているという話だ。
客には、薬房―――つまりはスハの家までわざわざ買い付けにくる者もいるが、注文された薬をソンジェが届けに行き、その際に次の注文を新しく受けてくる、という形の方が圧倒的に多い。
だが、一回の注文が次の注文に繋がるのは、それ程多いことではない。薬など、持病でもない限り、それ程しょっちゅう必要になるものではないからだ。よって、薬材で溢れる家の現状とは裏腹に、薬房には常に閑古鳥が鳴いている。
では、家に溢れる大量の薬材たちは一体どこに行っているのかというと……。
きょろきょろと通りを見回しながら歩いていると、近くの店の一つから薬箱を担いだ姿が出てくるのが見えた。
「あ、父さ―――」
ソンジェの姿を見つけ、スハが手を振って声をかけようとしたところで。
後ろの方から走ってきた子どもが、そのままソンジェにぶつかり、派手に転んだ。
うわ、痛あ……。
それを見ていたスハも、思わず顔をしかめる程、派手に転んだ。
その辺りの露店で買ってもらったらしい風車に夢中で、前を歩くソンジェに気付かなかったようだ。子どもは転んだ形のまましばらく放心したように固まっていたが、後ろから慌てて駆け寄ってきた親の顔を見ると、急に痛みが湧いたのか火が付いたように泣き始めた。
通りを行く人々も、何事かと振り返っては過ぎていく。
子どもは膝を擦りむいたようで、両の膝小僧に赤いものが滲んでいるのが見えた。それに気づいたソンジェが、背負っていた薬箱を下ろし、何やらごそごそとし始める。
「ほら、これを塗ったら、痛いのなんてすぐに吹き飛ぶぞ」
相手がいくら泣いている幼子であったとしても、ソンジェに笑顔はない。向けるものは、それが誰であってもたいていが真面目な仏頂面のままだ。その顔は、見慣れていない者には怒っているようにさえ映る。
案の定、仏頂面を向けられた子どもは、先程とは別の意味でひくりと固まり、涙を流すのさえ忘れてしまったようだ。
「この薬を塗るとどんな怪我でも痛みが引いて、すぐに直してしまうんだ。おじさんはこの薬に、今まで何度も助けられた」
固まっている子どもの表情が気にならないのか、そんなことを言いながら、器から薬を取って子どもの膝に塗り始める。すみません、と親が謝って遠慮しようとするのも無視だ。顔は恐いくせに、ソンジェの目には子ども……いや、目の前の怪我人しか見えていない。
「ほら、もう痛くないだろう?」
そう言って子どもを立たせると、先程まで固まっていた子どもは少し驚いたように小さく頷いた。それに、親の方もほっと息をついているのが分かる。
「ああ、お代は結構。どうせ、もうすぐ作り直そうと思っていたものです。捨てる前に役立てられてよかった。また痛むようなら、残りを使ってください」
そうして、塗り薬を一つ、まるまるその親子に渡してしまう。
スハは知っている。あれは先日作ったばかりの塗り薬で、まだまだ全然古くなんてないことを。そして、その塗り薬と同じものをまた用意しようと思えば、実に手の込んだ工程を経なければならないことも。
一部始終を見守っていたスハは、呆れたような、感心したような息を一つついて、「父さん」と声をかけた。そして、ソンジェの元に駆け寄る。
「なんだ、スハ。いたのか」
「いたのか、じゃないよ。さっきのあれ、無料であげたの? また作るの大変なのに。材料だって、たくさん使ってるだろ? なんで無料であげちゃったんだよ」
眉を寄せて言うと、なぜか、ばしっとソンジェに頭を叩かれた。
「痛っ! なんで叩くんだよ」
「お前は何も分かっていない」
「なんだよ、俺が何を分かってないって?」
叩かれたところをさすりながら聞き返すが、ソンジェは呆れたように首を振って、薬箱を担ぎ直すだけだ。
「ここにある薬は、それを必要とする人のためにあるんだ。目の前に必要としている人がいるのに、使わなくてどうする」
「でも、それで無料であげてたんじゃ、うちが暮らしていけなくなるじゃないか。それに、ちゃんとお金を払ってくれてる人もいるのに、一方では無料であげちゃうなんて、ちゃんと払ってくれる人たちにも失礼だよ」
言うと、ソンジェは歩き出そうとしていた足を止め、「お前は……」と振り返って、再び呆れたように息をついた。そして、目を眇めてスハを見下ろす。
「口ばかりは達者になりおって……」
その言葉に、思わずむうっとスハも唇を尖らせる。
「だって、本当のことだろ。……あっ、まさか、さっきのあの店もお金もらってないのか?」
確認するように腕を組んで斜めに見上げると、つい今しがたまで自分に向けられていた呆れがどこかに消え、ソンジェはスハからさっと目を逸らす。返事はないが、もはやそれが答えだ。
この親父め、また大したお金も取らずに薬を渡したな。
武骨で、少し厳しいところもあるソンジェのことを、スハは基本的に尊敬している。
自分の仕事に誇りを持ち、人のために労力を惜しまず、さらに良いものをと日々探求する努力も怠らない。そんな父は、自分が目指すべき大人の鑑とも言えるような存在だ。
そんなソンジェと、将来は自分も一緒に薬房をやっていくのだと思っている。だから、そのために覚えることや手伝うことは、基本的に何でも厭わない。
そして、スハ自身、誰かが喜ぶ顔を見るのは好きだ。そんなところは、利益が少なくとも進んで人助けをしようとする父に似たのかもしれない、とも思っている。
だが、そのことと、このこととは、話がまったく別だ。
薬房といえども、決して事前事業ではない。何をするにも、先立つものが必要になる。家族三人が暮らしていくためには、取るものはしっかり取らなければやっていけないのだ。
それなのに、この親父ときたら……。
スハは再び大きく息をつくと、そばの露店に手を伸ばし、そこにあった髪飾りを一つ取った。
「たまには、こういうのを母さんに贈ったりしなよ。薬代もまともに取らないで、母さんに苦労ばかりかけてると、いつか愛想つかされるよ―――っ、たッ!」
それを言いきるが早いか、スハの頭を再び、ばしっ、という衝撃が襲う。心なしか、先程よりも威力が強い気がする。
「痛いなあ」とまた頭をさすりながら恨めしく睨むスハに、ソンジェは叩いた手を軽く振りながら「ったく、」と息を吐き出した。
「一体どこでそんなことを覚えてくるんだか」
「どこも何も、皆言ってることだよ。知らないのは父さんだけだ。ていうか、図星だからって、叩くことないだろ。図星だからってさあ」
そこでそれを二回繰り返したのはわざとだ。父相手とはいえ、スハだってやられてばかりではいない。
だが、当然それはソンジェにもばれていて、再び腕を振り上げようとするソンジェに、スハは慌てて頭を庇った。その手は今度はぐうに握られている。それはやばい。まじでやばいやつだ。
「はは、なんだ、またやっているのか、お前たちは」
振り降ろされかけた鉄拳からスハが急いで逃げようとした時、後ろから笑い声が聞こえた。
振り返ると、片手に瓢箪をぶら下げた初老の男が一人立っている。
「まったく、相変わらずだな」
楽しそうに笑いながら、男は手にした瓢箪を口に運ぶ。ぐびり、と喉の鳴る音が聞こえた。
まるで見物でもするように、瓢箪の酒を呑みながらこちらを眺めているのは、近所に住むナ・ヨンギルという男だった。




