第33話 黒
少し動くだけでも息が上がる。
ヒャンは痛む体に鞭を打って布団から這い出ると、胸を押さえて一度息を整えた。
お産で消耗した体力は、まだまだ戻りそうにない。ずるずると体を引きずるように移動して、奥の屏風の影に入る。
必要最低限の装身具が詰められた箱は、既に蓋を開けている。金目のものが狙いであれば、野盗は何においてもそこに向かうはずだ。
寺の中は、既に十分な騒ぎになっている。野盗とて、目の前に金品があるのに、隠れている人間をわざわざ時間をかけて探すような、手間のかかる真似はしないだろう。そんなことをすれば逃げる時間を失い、己の首を絞めることになるだけだ。
重い体を引きずり、なんとか屏風の後ろに完全に入り込めたところで、ヒャンは壁にもたれて息をついた。
ユンファは、フェリョンは、無事に逃れただろうか。生まれたばかりの息子は、無事だろうか。
彼らが密かに抜け出たことを、野盗や、紫微国の兵に見つかっていなければいい。
額や首筋に、汗で髪が気持ち悪く張りつく。それを拭いながら、ただただそれだけを思い、ヒャンはもたれた壁に頭を預けた。
体がつらく、体勢を維持しているだけでも消耗する。唇がかさかさに乾き、無様に割れている自覚もある。
肩で浅い呼吸を繰り返すヒャンの手は、無意識に胸元に向かった。預かった時から、ずっとそこにあった首飾りを探して、指が彷徨う。
その首飾りがそこにもう無く、生まれたばかりの息子とともにあることを思い出し、そして、先程まで腕の中に確かにあった温もりがもう無いことを、肌身に沁みて実感する。
ああ、本当に。こんなに早く別れが来てしまうなんて。
「ふ……、……ううっ……」
引き裂かれるように、どうしようもなく胸が痛んだ。
目の奥が熱くなって、涙が溢れる。嗚咽が漏れないよう、ヒャンは口元を押さえた。
覚悟していたことではあったけれど、これほどつらいとは思っていなかった。
これ以降は、あの子が無事に生き延びたと信じるしかない。自分にできることは、もう本当に何もない。
がた―――。
どれ程そうしていたか、唐突に、何かの物音がした。
それが外から扉が開かれた音だと気付き、一瞬にしてヒャンは身を強張らせる。先程より強く両手で口元を押さえ、一切の物音を漏らさないように息を潜めた。
誰かが中に入ってきた。
その足音が、ゆっくりと部屋の中を歩いているのが聞こえる。
どくどくと、心臓の音だけが煩い。
足音は、まるで何かを探すように動いている。―――いや、隠れている何かに逃げられないよう、注意を払いつつ探っているように聞こえる。
その事実に気づき、ヒャンは戦慄した。
相手は、自分がここに隠れていることを知っている。それはつまり、相手の目的が単純な金品の強奪ではないということだ。
現に、扉近くに置いていた装身具の箱には目もくれず、足音はこちらへ着実に近づいてくる。
どっ、どっ、どっ、どっ。
相手に聞こえてしまいそうな程、心臓が激しく脈打っている。
屏風の前で、足音が止まった。こちらを探る気配が嫌でもありありと伝わってくる。
冷たい汗が、背中を滑り落ちる。
呼気が漏れるだけでも相手に居場所を掴まれてしまいそうで、ヒャンは両目を引き絞り、口元を押えて息を殺した。
だが、そのかいも虚しく、かた……、と屏風の端に手がかかり、そして、一気にそれを引き倒す―――。
「―――――……っ!」
生まれたばかりの若君を抱き、ユンファは走った。
野盗は表の正門の方から寺に入ったのだろう、騒ぎはそちらを中心に広がっているようだった。火の手が上がっているらしいそちらの方へ近づく程、騒然とした気配が大きくなるのを感じた。
表はだめだ。裏から行くしかない。
フェリョンとともに寺の背後の山へ通じる裏門を目指し、ユンファは物陰をひた走った。
途中、逃げ惑う王宮の者たちに鉢合わせしかけ、フェリョンとはそこで道を分けることになった。
野盗だけでなく、王宮の者たちや兵に見つかるのもまずい。合流すれば、ユンファが抱くものへ自然と視線が集まる。それは避けなければならないのだ。
フェリョンだけが先に行くことで王宮の者たちの目を遠ざけてくれ、若君を抱くユンファだけがこちらの道を来た。
その若君は、事態を察しているかのように、ユンファの腕の中で鳴き声一つ上げず静かにしている。
ヒャンの元を離れた時は「ふえ……っ」と一瞬ぐずりかけたが、そのあとは静かなまま身を縮こまらせていた。
ユンファは若君を抱き直し、建物の影に隠れながら、ただひたすら裏門の方を目指した。
寺とひと口に言っても、敷地内には本堂や講堂だけでなく、僧たちが生活する僧房や参詣者が逗留する宿坊など、数多くの建物が点在しており、それなりの広さがある。今いる場所を見失わず裏門まで向かうのも、実はそれ程容易なことではない。
同じような建物が続く角を、後ろを振り返りながら曲がり、前に顔を向けたところで、ユンファははっと足を止めた。曲がったばかりの角に再び引き返し、急いでそこに身を隠す。
腕の中の若君をぎゅっと抱き、少しだけ顔を覗かせて、行きかけた先の様子をそっとうかがった。
黒い覆面をつけた黒衣の者が数人、何かを探すように辺りを徘徊している。
太刀を手にした彼らの様相は、紫微国の兵のものではない。ひと目で、それが野盗だと分かる。
まさかこんなところで―――。
ユンファは心臓が早鐘を打つのを感じながら、唇を強く噛み締めた。
皆、表の方に出払っているのか、既に逃げ出したあとなのか、この辺りに人の気配はない。あるのは、ほぼ無人の建物ばかりだ。
状況を考えても、事情を考えても、当然、助けを呼ぶことなどできるはずもない。
何が狙いで彼らがこんなところにいるのかは分からないが、見つかればひとたまりもない。緊張で汗が滲み、若君を包むおくるみがずり落ちそうになる。
「見つかったか」
野盗たちをまとめている者なのか、その中の一人が鋭く声を上げると、他の者たちが瞬時に集まり、「この辺りには誰もいないようです」と短く返しているのが聞こえる。
奴らの足がこちらに向かえば、そこで終わりだ。なんとか打開する方法はないだろうかと必死に考えを巡らせるが、ユンファにできるのはやはり、息を殺してじっとしたまま、彼らが行き去ってくれるのを待つことしかない。
早く……、早く行って―――!
息を殺して、ただひたすらそれだけを願う。
唯一幸いなのは、この状況にあっても、若君が静かなことだった。生まれたばかりであるにも関わらず、この状況を理解しているとしか思えない。
もう少し、堪えていてください―――。
若君を強く抱きしめ、覆面の者たちの動きを、息を潜めて物陰からうかがう。
「―――そうか。ならば、お前たちはあちらを探せ。お前たちは向こうを」
「は!」
先程と同じ者が命じると、その場にいた他の者たちはそれぞれが指示された方へと散っていく。
一体何を探しているのか知らないが、覆面の者たちがこの場を離れ始める。そのことに、ユンファは思わずほっと息をつきかけた。だが。
「ヒャン妃と腹の子は、この場で必ず消さねばならぬ。しくじるな」
指示を出していた者が、最後に残ったもう一人にそう、低く言うのが聞こえた。
その言葉に、ユンファは思わず耳を疑った。ほっと落としかけた視線を、ぎぎぎ、と動かしてゆっくりと上げる。
何を。
あの者は、今何と言った。ヒャンと若君が、何。二人を、どうすると。
それ程大きな声ではなかったため、聞き違えたのかもしれない。だが、だとしても、妙な聞き違いだ。何をどのように言えば、そんな風に聞こえるのだろう。
耳から入った音が頭の中で正しく意味を成さず、ユンファは混乱した。
ヒャンと腹の子を、この場で消さねばならぬ―――、あの者は今、そう言わなかったか。
今しがた聞こえた言葉を、頭の中でもう一度反芻しかけたところで、
「何者だ。そこで何をしている」
鋭く詰問する声が聞こえ、ユンファはびくっと身を強張らせた。無意識に、若君を抱いた腕にぎゅっと力がこもる。
ゆっくりと首を動かし、声がした方を振り返った。
「聞こえなかったか、そこで何をしている」
武器を構えた紫微国の兵が、最後に残っていた二人の覆面の男の背を睨んでいる。
声は、その者たちに向かって投げかけられていた。
少し距離があり、後ろを向いていることもあり、男たちが覆面をしていることに兵は気づいていないようだ。
武器を構えたままじりじりと兵が距離を詰めていく中、だが、男たちはなぜかその覆面を取った。そして、あたかも初めからそうであったかのように、何事もない顔で兵を振り返る。
「これは……、将軍、失礼いたしました」
顔を確認し、構えていた武器を急いで収めて、兵は頭を下げた。
「こちらにいらっしゃっているとは知らず……」
「よい。知らせを受け、私も急ぎこちらへ参ったのだ。この辺りに怪しい者は潜んでいない。お前はあちらを探せ」
「は!」
命じられた兵は、すぐさま指示された方へ取って返していく。
ユンファは息をするのも忘れる程に、目を見開いてその光景を見つめまま固まっていた。
チャン・ギテ将軍―――。
その顔を見間違えるはずがない。近くに松明など無くても、この距離だ。兵が言った通り、ささやかな月明かりだけでも、はっきりと分かる。
紫微国の将軍であり、ソンドの一番の側近であるはずのギテが、なぜ。
なぜ覆面をして、野盗の仲間のように振る舞い、あまつさえ彼らに命じているのか。
信じられない思いで、ユンファはその顔をただ凝視した。
いや、それ以上に、ヒャンと腹の子を消すと言った、あの言葉は一体。
ユンファは、先程とは比べ物にならない程混乱した。それこそ、天地が返る程の衝撃だ。自分の見たもの、聞いたものが信じられない。
ギテがここにいるということは、これはソンドが命じたことなのだろうか。では、この一件について裏で糸を引いているのは、ソンド―――……いや、そんなはずはない。ユノを殺してまでヒャンを側室にしたソンドが、ヒャンと、そのヒャンが産む天命の子を消そうとするなどありえない。
では、誰が。
そう考えて、ユンファは一瞬でその答えに辿り着く。
まさか、王后様が―――。
ざっと音を立てて、全身の血の気が引いていく。かたかたと歯の根が揺れそうになり、ユンファは必死に口を閉じ、奥歯を噛み締めた。
ありえない話ではない。どころか、一度そうだと思ってしまえば、もうそうとしか考えられない。
早く、この場を立ち去らなければ。
ユンファの頭を、それだけが占める。
見つかれば、本当に殺される。自分だけではない。託された、生まれたばかりの若君の命まで、即座に斬り捨てられてしまう。
そろり、と一歩足を後ろに引く。
ギテは別の方向を向いていて、こちらには意識を向けていない。その、今のうちに。
いざとなればすぐにでも走り出せるよう若君をぎゅっと抱き、細心の注意を払いながら、震える足をもう一歩、そっと後ろに引く。
本来進もうとしていた道は、ギテに塞がれていて進めない。であれば、違うところから寺を抜け出るより他ない。
幸い、寺の背後は山に囲まれている。門は使えないが、山へと抜けられる場所はいくらでもあるだろう。その先に道が続いている保証はないが、そうするしかない。
もう一歩、二歩……、とまた足を引き、建物の影にギテの姿が完全に見えなくなったところで半身を返し、なるべく音を立てないよう踵も返して、来た方へと足を戻し始める。
がくがくと抜けそうになる腰に必死に鞭を打ち、ユンファはようやくその場から駆け出した。




