第34話 崖
「―――……」
すぐ近くで何かが動く気配を感じ、ギテの眉がぴくりと撥ねた。
この場に残っていた部下に、目だけで合図を送る。
王宮からともに駆けてきたのは、いずれも信頼のおける腹心の部下だ。ギテのその合図だけで部下は察し、同じように目だけで頷き返す。
ギテは黙したまま、頭を動かさずにただ気配だけを探った。
目に見える場所に、その姿はない。だが、どこかの物陰に、息を潜めて隠れている気配が伝わってくる。
そのままの体勢で、じりじりとその瞬間を待つ。
少しずつ離れようとしていた気配が、ふいに脱兎のごとく駆け出したのを感じ、ギテは部下とともに瞬時に身を翻した。気配が隠れていた角を曲がり、そのあとを追う。
もちろん、足音は立てない。これくらいは、訓練を積んだ者なら誰でもできる。
勢いを落とさないまま、太刀を構えて風のようにあとを追った。
逃げる気配は一つだ。建物の合間を縫うように進んで行く。
方向から、寺の背後の山を目指していることはすぐに分かった。
やはり。
抜けるのであれば、その方向しかあるまい。
走っているのは女だ。だが、それがヒャン妃かどうかは、その後ろ姿だけでは分からない。
ただ、身重、あるいは、産気づいたというヒャン妃が、これ程の速さで進めるとも思えない。とすれば、光海国からともに参ったという、あの女官か。
女は腕に何かを抱えているようだった。こちらも、走る後ろ姿にちらちらと白いものが見える程度で、その正体は判然としない。
だが、野盗が今まさに襲撃をかけている寺の中だ。ヒャン妃付きの女官が、産気づいたという主の元を離れ、ただ一人裏山へ向かって走るというのもおかしい。
あるとすれば、動かせぬヒャン妃を諦め、手近な荷物をまとめて自身だけ逃げ出したか、あるいは、何か大事なものを抱え、それを野盗から守るために逃げているかのどちらかだ。
恐らく、後者だ。
光海国からわざわざついてきたあの女官が、主を捨てて逃げ出すとは思えない。十中八九、その命よりも大事な何かを、主より託されたとしか考えられない。
既に産み落としたあとか。
直感がそう告げる。女官が抱えているのは恐らく、生まれたばかりの赤子だ。
腹の子諸共亡き者にする、それが王后であるチョンミョンより受けた命だった。
母体が死ねば腹の子も死ぬ。だからこそ、と一石二鳥を狙って仕掛けた襲撃であったが、それはあと一歩間に合わなかったようだ。
ならば。
今その赤子を消し、そのあとにヒャン妃も消せば、何も問題はない。
作戦に多少の変更は生じるが、結果が変わらなければ同じことだ。
白いものを抱えて走る女官の背が、生垣の間から山へと入っていく。それを追って、ギテも山へ入った。
元々、弱い月明かりしかない夜だ。木々が生い茂り、その僅かな明かりさえ届かない山の中では、そのような道に慣れていない者は余計に足を取られやすいだろう。
すざざざ、と前方で何かが滑り落ちる音とともに、小さな悲鳴が上がるのが聞こえた。ギテはすぐさま足を止め、辺りに耳を凝らす。
どこまで落ちたか、目で確認するよりこちらの方が早い。次に動き出した場所が、獲物がいる位置だ。
しばらく―――とはいえ、実際にはそれ程長くはない時が流れたあと、再び木々を踏みしめて走り出す音が聞こえた。
ここより僅かに下。
それを確認し、ギテは一気にその距離を滑り降りる。そして、必死に走る音を捉えたまま、そのあとを追った。
木々の合間に、赤子を抱えて走る女官の背が見え隠れする。少しだけ距離を詰め、その背を追った。
どこで仕留めるのがよいか。
確か、この先には川が流れていたはずだ。
女官を追いながら、この地の地形を頭に思い浮かべる。このまま少し左側へと誘っていけば、切り立った崖しかない場所に出る。
つかず離れずの距離で獲物を追いたて、逃げ道のない場所へと追い込む。それが狩の鉄則だ。
ギテは背後から追い立てながら、太刀を構え、獲物を少しずつ左側へと誘っていった。そして、進む先の終わり―――崖が見え始め、獲物との距離を一気に詰めていく。
逃げる女官の切羽詰まった激しい息遣いが、すぐ目の前に聞こえた。
進む先が崖になっていることに気づいたのだろう、怯んだように女官の足が鈍る。その隙を見逃さず、ギテは振り上げた太刀をその背に向かって大きく斬りつけた。
「―――――!」
肉を深く切り裂く確かな手応えとともに、赤い血飛沫が上がり、同時に、闇をつんざくような悲鳴が迸る。
ふらりと揺れる女官は、だがなおも前に進もうと足を動かしている。その背に狙いを定め、ギテは再び太刀を翻した。
まずは女官。
赤子の前に、それを守る者の息の根を完全に止める。
ギテは一切の迷いなく、最後の一閃を今度は真横に薙ぎ払った。
追われている。
背後から、着実に追いかけてくる者がある。
振り返らずとも、それが誰かユンファには分かっていた。
チャン・ギテ将軍―――。
その正体が分かっているだけに、逃げる足ががくがくと震える。
逃げ切れる未来が、まったく思い描けない。確実に捕まり、確実に殺される。そんな未来しか想像できない。
だが、だからと言って、ここで諦めるわけにはいかないのだ。自分はよくとも、この腕には若君がいる。ヒャンとユノの、大切なお子がいる。
なんとしても、若君を守らなければ。
ユンファはただその一念のみで、足を前に動かし続けていた。
寺の生垣の合間を抜け、山へ入る。予想していた通り、やはりそこには道なき道しかない。だがそれでも前へ進む。ユンファには、後ろへ下がるという選択肢はない。
息を吸うたびに喉がひりひりと痛み、肺が焼けるように熱くなる。
汗がこれだけ流れているというのに、なぜか体は氷のように冷えていく。全身がぶるぶると震え、足元が覚束ない。
思うように前に進めず、焦りだけが募っていく。
木の根に足を取られ、ぬかるんだ土に派手に滑った。身を屈めて両腕を抱え込み、なんとか若君だけは守ろうとするが、掴まる手のない体はずざざざ、とそのまま一気に下に滑り落ちていく。
どこまで落ちたのか、斜面の途中で体が止まった。
慌てて腕の中を確認すると、若君は目を閉じたまま規則的な呼吸を繰り返している。最後にヒャンが忍ばせたユノの首飾りも無事だ。若君に何事も無かったことを確認し、ユンファはほっと息をついた。
急いで身を起こし、さっと辺りを見回す。すぐそばに大きな岩が連なっている場所があり、目を凝らすと、その重なった部分が少し落ちくぼみ、身を寄せられるような形になっているのが見えた。
このまま若君を抱えて逃げたとして、行きつく先は「死」、一つしか見えない。
ゆえに、決断は早かった。
ユンファは一度近くに若君をそっと下ろすと、その落ちくぼんだ場所に急いで落ち葉を集め、その上に若君を移した。そして、寒くないよう、さらにその上にまた落ち葉をかけていく。
若君が変わらず健やかな寝息を立てているのを確認し、今度は着ている裳を躊躇いもなく足元から捲り、その下にある肌着にあたる部分の白い裾を大きく切り裂いた。それを広げ、そばに積もっている落ち葉を次々と集めていく。その上にさらに枝や石も手当たり次第に集め、白布を丸めて括り、おくるみのような形に模して胸に抱え込む。
最後に、眠る若君の元にしゃがみ、ユンファは小さく言葉をかけた。
「ここにいれば、お母上様があとできっと見つけてくださいます。それまで、ここでしばらく待っていてくださいね」
そして、決意を固めて再び立ち上がり、前を見据える。
若君をギテという追跡者から守るためには、自分が囮となり、その目を若君から逸らすしかない。
自分が抱えていては、確実に命を落とすことになってしまう。それよりも、ここに隠し、自分が囮となって少しでもギテから遠ざける方が、若君が助かる可能性が高いと考えた。
あとできっと、ヒャンが見つけてくれる。それを信じるしかない。
ユンファはおくるみに模した白い包みを抱え直し、若君に背を向けて走り出した。
自分を追うように斜面を一気に滑り降りる音が聞こえ、その音がこちらを追いかけてくる。狙い通りだと思う反面、とてつもない恐怖に慄き、全身が引き攣った。
恐ろしい。
正直に言えば、今すぐにでも膝を折って蹲ってしまいたい。息を潜めて隠れていれば、自分も助かるかもしれない。
そう思いかける自分を必死に叱咤し、走り続ける。
若君を守るためだ。ヒャンから託された若君を守るために、ギテをこちらに引きつけ、少しでも若君から遠ざける必要がある。
背後から迫る恐怖から逃げるように、前へ、前へと、ユンファは必死に足を動かした。
「はあ……、はあ……、はあ……」
体が重い。泥の中を進んでいるように足が絡め捕られ、そのまま沈んでいくように感じる。
どくどく、と心臓が激しく走り続ける胸が、引きちぎれそうな程に痛い。
気付けば、目の前に続く道がないところに出ていた。
崖だ。
どれ程の高さがあるのか、遥か下の方からは、どうどうと勢いよく流れる水の音が聞こえている。
これ以上進めない。逃げ場がない。
足が止まりかける。
だが、すぐ後ろには恐怖が迫っている。
逃げなくては。でも、どこに。
進まなくては。でも、どこに。
その躊躇を察したように、追う気配が一気に距離を縮めてくる。
「―――――!」
自分の喉から出たとは思えない叫びが迸った。
背後から斬られたのだと理解した途端、背中に想像を絶する灼熱の炎が一気に広がる。ぐらりと視界が揺れ、体が傾いだ。腕に抱えたものを、取り落としそうになる。
それでも足が前に進んだのは、ほとんど無意識だった。
斬られてなお前に進もうとしているのは、若君を守るためか、恐怖から逃れようとするためか、もはや自分でも分からない。
息を継ぐ間もなく、再び背を、今度は薙ぎ払うように真横に一閃され、ユンファの体は今度こそ均衡を失った。
白い包みを腕の中に抱き込んだまま、膝がかくりと折れ、倒れ込んだ肩が地につき、そのまま、何もない宙に頭からずり落ちる。
遥か下方に勢いよく流れる水の中に向かって、崖から真っ逆さまに落ちたのだと気付いた時には、ユンファの意識は既に半分消えかかっていた。
暗い闇の底に落ちる寸前、上から冷たく見下ろすギテの目と、それに重なってチョンミョンの目が見えたような気がした。
その目は、ただ淡々と、自分と、生まれたばかりの赤子の死を望んでいる。
それが、ユンファが見た最後の景色となった。




