第32話 誕
ヒャンは、まさに命がけの闘いの最中にあった。
もはや痛みなのか何なのか分からない大波が、荒れ狂うように次々と襲いかかり、すべてを呑み込むように闇の中へ引きずり込もうとしてくる。
ヒャンはそれに必死に抗い、だが一方で、その波に身を委ねるようにして、すべてをぶつけるように力を振り絞った。
「ヒャン妃様、頭が見えてきました! もう少しです……! もうひと踏ん張りですよ!!」
すぐ近くにいるはずなのに、不思議な程遠くにユンファの声が聞こえる。その声以上に、自分が必死に息を継ぐ声の方が鼓膜を占めているからかもしれない。
一体いつまで続くのだろうか。
これが最後かと思いながら、これ以上ない程振り絞った力を何度もぶつけ続ける。
そして。
声にならない叫びが喉から迸るのも何度目かに至った時、突如、ぱっと視界が開けたような気がした。それまで絶えず襲ってきた波が唐突に和らぎ、ふっと力が抜ける。
何が起きたのか、初めは分からなかった。荒い呼吸を繰り返す中、しばらくして、
「………ふぎゃあ……っ」
猫が鳴くような、か細い声が聞こえた。その声は徐々に大きくなり、やがてはっきりとした産声を上げて泣き始める。
「ふ……、……ううっ……」
理解した途端、込み上げる安堵に、自然と喉が震えた。
ああ、無事に……。よく、無事に……。
視界が歪み、耐える間もなく、堰を切ったように熱い涙がこぼれ落ちる。
初めての外の空気を胸いっぱいに吸い込むように、子はぎゃんぎゃんと力強く泣き続けている。その声を聞くだけで、ヒャンは胸がいっぱいになり、何も言葉が出てこない。
「ヒャン妃様、男子ですよ。本当に元気な、若君です」
ユンファ自身も涙で頬を濡らしながら、取り上げた子を急いでおくるみに包み、ヒャンの枕もとに下ろしてくれる。
「よくぞご無事に……、本当に、よくぞ成し遂げられました……!」
ユンファの言葉に何度も頷きながら、ヒャンはただ、生まれたばかりの赤子を見つめる。
その顔をしっかりと見たいのに、涙に揺れて何も見えない。おくるみに手を伸ばし、その顔にそっと触れる。
「……本当に、よく、無事に生まれてきてくれましたね」
ようやく会えた我が子。こうして触れることができて、元気よく泣く声が聞ける。それがどれだけ幸せで、奇跡のようなことか。
目尻から、また涙がこぼれ落ちる。
力いっぱい泣き続ける赤子は、顔を真っ赤にして、小さな小さな両手をこれ以上ない程に握りしめている。その一生懸命な様子にふっと笑みがこぼれ、そしてまた、ほっと安堵の涙が落ちる。
いくら眺めても、眺め足りない。
しわくちゃに泣いているだけだというのに、どうしてこれ程に愛しいのだろう。
「ユノ様―――」
自然と、ヒャンの口からはその名がこぼれていた。
「あなたの息子が、生まれましたよ。ユノ様と、私の、大切な子です」
赤子に触れるのとは反対の手で、ヒャンは胸元の首飾りを握った。
涙で、声が震える。
今では口に出すことも憚られる、この子の本当の父親の名前。そばにユンファしかいない今この瞬間だからこそ許される、その真実の願いを、「どうか―――」とただ祈る。
「どうか、重い宿命にも負けず、希望に包まれたこの子の行く末を、見守っていてください」
その願いに呼応するように、ふわりと柔らかな香りが流れた気がした。
清廉な、白檀の香り―――。
都合のいい幻想でも、気のせいでもいい。そばにユノがいてくれるような気がする。そう感じられるだけで十分だ。
また、涙が頬を伝う。
―――だが、そうやって、安堵と感動を感じられていた時は、あまり長くはなかった。
「ヒャン妃様―――!」
突如、外から刺すような鋭い声が投げ込まれる。
「チョン医官、どうしたのですか」
尋ねたのはユンファだ。投げ込まれたのが明らかな緊張と焦りを孕んだものだったからだろう、返したユンファの声も硬い。
ほっと安堵に包まれていたのも束の間、瞬時に空気が硬く張り詰めたものに変わる。
「寺に野盗が押し入ったようです! 兵たちが応戦していますが、こちらにやって来るのも時間の問題かと……!」
「何ですって……!」
その知らせに、ユンファが言葉を失って固まった。
確かに、耳を凝らせば、叫び声や、逃げ惑う声、太刀を交えるような戦いの音が遠くに聞こえる。そしてそれは、徐々にこちらにも近付いてきているようだ。このままここにいれば、確実に見つかる。
ヒャンはユンファの手を借りて、横になったままの身支度を急いで整え、許可を出してフェリョンを中へ入れた。
「ヒャン妃様、このままここにいては危険です。早くお逃げください!」
「ですが、ヒャン妃様はまだご出産されたばかりなのですよ……! 既にお体に負担を強いている状態だというのに、無理に動けば、それこそお命が危うくなります……!」
「それは、医官として私が一番よく分かっています! なれど、このままでは……!」
ユンファもフェリョンも、唇を噛み締めて苦渋の表情を浮かべている。
ヒャン自身も、青い顔で必死に考えを巡らせた。
早く逃げなければならないのは分かっている。だが、出産したばかりの体を動かすことができない。しかし、このままではここにいる全員の身が危うくなる。
迷っている暇はない。
ヒャンが決断を下すのは早かった。
まだ痛む体を必死に起こして、切れそうになる息を整えながら、二人を見据える。
「ユンファ、この子を外へ。事前に話をつけていた者の元へ、無事に送り届けてちょうだい。それからチョン医官は、なるべく早くこの場を離れてください。ここにいてはあなたも危険です」
「ですが、ヒャン妃様は」
二人の硬い視線を受け、ヒャンは無理にでも笑顔をつくって答えた。
「私は、その屏風の後ろに隠れましょう。二人の言う通り、今の私に長距離の移動は無理です。金品を求める野盗の狙いはあくまでそちらであって、隠れた人間をわざわざ探し出し、殺めることではきっとありません。大丈夫、私の装身具をすべて、こちらに出しておきますから」
「ですが……!」
なおも言い募る二人に、ヒャンは順に語りかけた。
「チョン医官、あなたには、お腹の子は死産だったと証言してもらう必要があります。それには、ここで死なれては困るのです。必ず、その言葉を王宮へ届けてください。それから、ユンファ。あなたには、なんとしてもこの子を無事に逃がしてもらいたい。あの方の子を、ここで失うわけにはいかないの。なんとしても守らなければ」
そして、ヒャンは手を伸ばして、赤子を抱く。
その、重さをほとんど感じない軽さに、ヒャンは途端にこみ上げた苦さで大きく眉を歪めた。
初めて抱いたこれが、最後の抱擁になるなんて。
生まれたばかりの息子を抱きしめ、頬をすり寄せるように、めいっぱい近くにかき抱く。
先程まで力いっぱい泣き叫んでいた赤子は、今はすやすやと健やかな寝息を立てていた。それを感じながら、その寝顔にそっと、優しく手を添える。
よく寝て、よく泣いて、よく飲む子に育ちますように。
自分を見失わず、優しく、元気な子に育ちますように。
たくさんの願いを込めて、ヒャンはその寝顔に触れる。確かに感じる温もりに、堪え切れず瞳が大きく揺れる。
「―――っ」
笑顔で送り出したいと思うのに、それができない。
まだもう少し先だと思っていた別れが、途端に現実となって押し寄せてくる。
この子を手放したくない。そんな思いで胸が苦しくなる。
覚悟していたことではある。生まれてすぐに手放すことは、この子を守るためでもあった。
なのに、こんなにも早く別れがやってくるなんて。
子が身につけた産着と、おくるみ。ヒャンはそこへ、視線を移した。
それが、送り出す息子へ、母から贈ることができた唯一のものになってしまった。
ヒャンはその合わせ目を丁寧に整え、赤子の頬に再び指を添わせる。
記憶に、心に、息子のすべてをしっかり刻むように、順に指でなぞっていく。
「凛々しい眉、意志の強そうな瞳、すっきりと通った鼻筋に、少し立った耳……」
涙で視界が乱れそうになるのを必死に堪え、何度も何度も、目の奥にそれを刻み込む。
「心配しなくていいわ。この母が、あなたを覚えているから。何年経っても分かるように、きっと覚えているから」
だから、どうか無事に。
「何年経っても、どれだけの時が流れても、この母が必ず迎えにいきます。だから、その時まで、どうか無事で……」
最後は、涙で声が潰れる。
かけたい言葉は、託したい願いは、たくさんあるのに。締め付けられるように喉が詰まって、そこから出せるものは嗚咽しかない。
ヒャンは胸に下がる首飾りを掴み、外したそれをおくるみの中に入れた。
勇壮な嘴を構えた鴉が力強く羽ばたく、白玉の首飾り。光海国の首長に代々受け継がれてきた、ユノが常に身につけていた、その首飾り。
そこに、堪えに堪えた涙が落ちる。
「……きっと、お父上があなたを守ってくれます」
最後にもう一度、愛しい我が子の頬に触れると、ヒャンは顔を上げた。
「ユンファ、この子を頼みます」
ヒャンの強い眼差しに、受け取った赤子をしっかりと抱いたユンファが、深く頷く。
「チョン医官も、早くここを」
そして、フェリョンもしっかりと頷き、ユンファの先に立って扉に急ぐ。
フェリョンが扉を開けると、夜闇の端の方が赤く燃えるように染まっていた。どこかで火の手が上がっているのかもしれない。
まだそれ程差し迫った状況ではないようだが、そのうち火の手がここまで伸びてくる可能性はある。振り返る二人に、だがそれでもヒャンは強く頷き、彼らを送り出す。
「二人とも、頼みましたよ」
扉の向こうにその背が完全に見えなくなるまで、すべてを託した彼らを、ヒャンは最後まで見送った。




